Mandalaband "Mandalaband"、1975年。
プログレ聴き始めの頃、このジャケに大いにイマジネイションを刺戟された。
アナログ盤でいうA面は、"Om Mani Padme Hum"、邦題『曼荼羅組曲』。4つの楽章からなる20分超の曲。
B面は5分前後の曲が4曲。
『曼荼羅組曲』冒頭、SE 的な1分間に、これこれ!来た来た!ってなった。でも曲演奏が始まると、戸惑った。
理由は2つ。
ジャケが期待させるものとのギャップと、作曲としての大雑把さ。
ジャケから私が勝手に思い描いてたのは、チベット密教とかの精神世界。そこはまあ中学1年生の料簡です。チベット侵攻とかの現代政治のトピックには、接する機会すら無かった。
鉄条網とか、破れたマンダラとか、そこから政治を読み取れないほうが鈍感すぎますが。
チベット語で歌われてる(らしい)ことを除けば、曲自体には、民族的要素も、精神世界的要素も無い。
(第1楽章と第2楽章のあいだに再び短く SE が入るけど、却って、気分を持続しようとする「せこい」手段に聴こえる。)
こっちの勝手な先入観を排して「これはこういうものとして」評価しようにも、作曲として大雑把。基本ホモフォニーで、「コード進行があるだけ、オーケストラルな響きの持続があるだけ」みたいな、しかもそのコード進行があまりにもコンヴェンショナルで、クラシック的とかいう以前の、義務教育でカデンツを教えるための基本例、みたいな。
ことに「ベースがルートキープ」なことがその印象を決定付けてる。
こういうのがつまり「シンフォ」なのかな。
で、こういう時、何とか美点を見出そうとするわけです。こっちの聴き方のほうを工夫することで、意味付けしようとする。
妄想する。イギリスのバンドが、イギリスのプログレとしてやってるのではなく、「現地の、プログレが流通してない地域の、地元の音楽家が、たまたまラジオで受信したプログレ曲に触発されて作ったもの」という設定に沿って作ってるのだ、と。
そうすると、いろいろ説明がつく。
大雑把なまでのあまりにもの大らかさも。
民族的要素の無さも。地元の音楽家が、自らの民族性を打ち出すのではなく、むしろ本人的にはそれを排除して、目覚めた「プログレ」たらんと意図してるからだ。時折ほのかに民族性の香りが、「意識」ではなく「気質」によって、立ってしまってる。
という設定、という妄想。
以上は、「音楽そのものに即して」の聴き方じゃないから、話題にするのを避けてた。でもだからこそそういう「じゃない」例として、書いておきました。
10数年前、ユーロ・ロック・プレスに、David Rohl インタヴューが載ってた。Mandalaband の新譜?リマスター?がいろいろ出たタイミングだったと思う。内容をまったく憶えてないけど、ひとつ、1975年のオリジナル "Mandalaband" はいろいろな制約で不本意な出来になってしまった、という発言があった。合唱の扱いについてとかだったかな?
"Mandalaband"「B面」のうちの1曲、'Looking In' の、2010年のリミックスないしリマスター。冒頭40秒間シンセ・パートが足されてて、印象がプログレ寄りになってる。