猫と民謡

猫の写真はその後いくらか撮ってるんだけど、猫との関係が「撮る撮られる」から始まることに、違う気がして来た。

信頼関係を築くのが先で、写真を撮るのはその結果付いて来ることの筈だ、と。

 

初対面の猫にカメラを構えて近付くのは、民謡を取材するために「研究者」という名の余所者がずかずかコミュニティに入り込んで、いきなりマイクを突き付けて「さあ歌え」というようなものだ、と。

仮にそれでどんなに猫写真のコレクションが出来ても、寂しさが積もってゆくばかりだ。

 

道で寛ぐ猫。

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私はことさら気配を消して間合いを詰めたわけではなかった。こっちの足音に気付いてて、人慣れしてるので気に掛けてないのだと思った。ある距離で、ハッと気付いてこっちを振り返って警戒の態勢に入った。

それ以上距離を詰める気になれなかった。

 

民謡=コミュニティの音楽を取材することは、可能だろうか?

自然科学じゃないので「観察者が場に影響せず客観的に記録する」のが正しいのではない。まず信頼関係を築いて、話はそこからだ。つまり研究者が場に積極的に関わって、相互行為の結果生じるものが初めて、情報と呼べるものだ。