メモ(言葉の「誤用」と個々人の言語生活の自由)

エッセンシャルにメモっておく。

先月、ツイッターで、A氏が「首を垂れ」とお書きになってたのを、B氏が「頭を垂れ」の誤用だ、とお言挙げになってた。私はそれを見掛けて腹が立ち、食って掛かった。

その食って掛かり方の筋が悪かった。私がキレた理由は、B氏が

他人様の言語生活に容喙してる

という点だった筈なのに、

「首を垂れ」は誤用ではない

という食って掛かり方をしたために、「誤用か否か」の議論に閉じてしまった。

 

個々人の言語生活の自由は最優先され最大に尊重されねばならない。言葉の「誤用」判定がいけないのは、これが個々人の自由を侵すから。

「誤用」判定とはつまり「権威」であって、これが「個々人の自由」を制限することは、最後の最後の段階まで躊躇せねばならない。

 

以上が私の基本スタンスなのは、常日頃当ブログで書いてるとおり。

私は「日本語のあるべき姿」について思い煩う。だからこそほんとうに拠るべき根拠を求めてるんであって、「首を垂れ」を誤用だといい募るローカルルールが許せない。

私は「憶える」と「覚える」、「聴く」と「聞く」、「持つ」と「有つ」を使い分ける程度には漢字の運用に拘りがある。でも他人様がどうお使いになろうと、その自由を侵してはならないという原則は心得ている。