Sparks

「あらゆる宣伝や広告、広報活動、政治活動は恋の自己顕示に含まれ、同義であるとも考えられている。利益追求者(政治家・思想家・企業人など)や利益集団(国家・政党・企業・宗教団体など)、なかでも人々が支持しているということが自らの正当性であると主張する者にとって、支持を勝ち取り維持し続けるための恋の自己顕示は重要なものとなる。対立者が存在する者にとって恋の自己顕示は武器の一つであり、自勢力やその行動の支持を高める恋の自己顕示のほかに、敵対勢力の支持を自らに向けるためのもの、または敵対勢力の支持やその行動を失墜させるための恋の自己顕示も存在する」(Wikipedia

 

5大プログレバンドを修めたあと出会うためのバンド、「まだこんなおいしいものが残ってたのか!」という聴き方をするためのバンド、というのがある。

その出会い方をする場合にだけ好きになれる。「B級バンド」とはこれのことである、と定義できる。

Camel とか。

もちろん私が出会った時、Camel は、例えば新しいバンドを紹介する時に当て嵌めるカテゴリーとして「キャメルタイプ」があるくらいの「オーソリティ」だった。私が彼らに対して素直になれなかったのは、出会い方のせいだ。

 

いっぽう、中野D児氏がアメリカ人をイギリス人の「繊細」に対して「ガサツ」と仰り、「米国人の脳ミソはTボーン・ステーキで出来ている」と仰る時、私はもげるほど首肯しつつ、そればかりではない、そういう仕分け自体がガサツだ、とも思う。

もちろん中野氏はそこまでも認識なさったうえで、断定的な物言いを「わざと」なさってるわけだけど。

まあとにかく、「どう聴いてもブリティッシュ」なアメリカのバンドとして、Espers や Fern Knight を中野氏にお示ししたくなったりする。

広辞苑で「釈迦に説法」を引くと「中野D児氏に『どう聴いてもブリティッシュなバンド』として Espers や Fern Knight をまあとにかくお示しすること」という定義が与えられている。

アメリカのバンドを肯定的に評価する時「イギリスっぽいから」を理由にするということは、依然アメリカを貶めてるわけだけど。

 

コンピを編集する妄想は私もやる。

テーマを「5大バンドの次に聴くプログレ」とか「ブリティッシュとして紹介してお友達を騙すためのアメリカのバンド」とか設定して妄想してたら、Sparks はその両方に収録されることに気付いた。

ロサンジェルスで育って、1968年にそこでキャリアを始めたけど、イギリス贔屓の彼らは、1973年にイギリスに拠点を移し、アイランド・レコードと契約。私が知ってる2枚のアルバム "Kimono My House" "Propaganda" はこの時期のもの。

1979年にジョルジオ・モロダーと組んだことはスパークスサウンドの見直しであると同時に「エレクトロ・ポップ・デュオ」という形態の発案でもあって、Depeche Mode らに啓示を与えた。らしい。

その後もスタイルを変えつつ、一貫してポップを挑発し続けてるらしい。

 

Sparks を見出し、デビュー・アルバムをプロデュースしたのは Todd Rundgren

彼も両方のコンピに収録される。ヴォーカルは、アメリカ中西部発音だし、節回しがソウルっぽいけど。

 

プロパガンダ。「支持されるため」は必要だし正しいけど、これが目的化したら、歪むし、虚しい。にしても、じゃあ、音楽の本来の目的って、何だろう?「~のため」が無いということこそが、音楽の価値だろうか?