そもそもこの御企画は、オルークの「この作品のどこが特別なのか、何が他のアンビエント作品と異なるか」「聴いているときのただごとじゃない感覚は一体なんなのか」「その正体に迫」るべく開始されたものです。
ふつう音楽作品は、カデンツなり、反復と差異なりのセオリーというか文脈にしたがって進行する。聴き手はその文脈を共有しそれに沿ってゆくことで、作品を理解できる。
オルークのこの作品に対しては、この手が使えない。ならばとて、「この曲を、1分ずつ聴いて言葉にしていく」「全体としての印象が曖昧なら、部分で分解していく」という、しゅん氏ご自身が「愚直」とおっしゃる方法をお採りになる、という発想自体にまず驚きますが、さらに驚くことに、現にこれを貫徹目前までお進めになっている。
果たして、あと20秒、この作業が完遂された時、当初の目論みのとおりに「ただごとじゃない感覚の正体」に迫り、何かが解明されるのか。今回、作品に寄り添い、作品を「部分に分解」して書かれた言葉。作品の中で何が起きているか、音の出来事がつぶさに記録されました。これ自体がすなわち作品の解読なのか。あるいはこれは準備段階で、統合なり編集なり解釈なり、次の何かの作業が必要になるのか。
つまるところ「聴く」とは何をどうすることなのか。
今回しゅん氏がお採りになっている手法を、オルーク作品に限らず一般に、カデンツなり反復なりで書かれた曲に対しても採る、ということもアリなのかも知れないです。
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