ハイコンテクスト

そういえば以前、ECM に「言及」しただけで ECM「好き」ということにされてしまって、迂闊に口を開けなくなった、ということがあった。

あれはさすがに私の責任じゃなかったと思うけど、「通じるという前提」をどこまで見込めるか見極めるのって、相手や場面によりけりで、むずかしい。

 

「言わずに済むことは言わずに済ませる」は美学ではある。

これがまずいのは、ハイコンテクストを理解することが難しい方、そのことでご本人もトラブルを抱えがちで悩んでる方、がいらっしゃること。

その方たちを読み手に含めずに書いてる。その方たちからの見え方に想像力を働かせることをサボって、貫く価値のある美学なんて、無い。

 

語尾とは「関係」(相手との、場との)だと思うけど、私が「ね」「よね」を嫌うのは、相手を共犯に巻き込む、個人の責任において言うべき意見を一般論にすり替える企図だ。

日本語がこれを犯しやすいのかと思ったら、『不思議の国のアリス』中の、アリスとイモムシのやりとりにも出て来る。アリスの

"~, you know."

という語尾に対して、イモムシが

"I don't know."

と返す場面。

 

意味するところを無造作に提示する。「です。」と言い切る。

私が善意で言ってるのか悪意で言ってるのかは、コンテクストを読めば判るでしょ、と。

でも相手だって暇じゃない。

あるいは、私は一語一語を、この文脈でならこの意味になる、ということを彫琢して、文章を、理想的には「詩」として、組み立てようとする。なので、その中の一単語に反応してリプ頂くと、会話が成り立たない。「そこじゃない!」と相手を批判するのは酷で、要するに私の文章がクソリプホイホイ」なのだ。

相手の読解力を信頼する、というと聞こえは良いが、本来多義的な言葉を私の文脈で解釈しろ、という身勝手に過ぎない。

 

桐島かれんさんがお話しになるのを TV で拝見した時、語尾に笑みをお付けになるのを見て、ご心労を思った。

きっぱりとした口調が、相手に「攻撃性」と受け取られる、というご経験を多くなさったんだろうな、と。