ロックを定義する

いえ、無理です。ロックを定義するなど。

 

ただ、他との対比で、「ジャズではなくロック」「クラシックではなくロック」の「外堀を埋める」ことは出来そう。

 

むかしジャズのインプロの方とお話しした。ジャズの方といっても意識の幅は広く、ジャズプレイヤーとしてのテナーサックスの他に、バリのスリン、雅楽篳篥を、本式に演奏なさる方だった。

あらゆるジャンルをお聴きになるが、プログレはあまりご存じなかった。いくつかお聴かせした。彼の戸惑いの反応の理由はほぼ「ジャズは演奏家のもの、ロックは作曲家のもの」であることから説明できるようだった。

Henry Cow 'Ruins' を「どこをどう聴けばいいか解らない」と仰った。この「書き尽くされた」音楽に「演奏」の要素を見出そうとすれば、その反応になるのは必定だ。私は「ただこういう作曲として聴けば良いのでは?」とお答えしたが、ロックが作曲家のものであるというのは私にとって「前提」だったので、私には彼の反応に逆に戸惑った。

半獣神の午後に、フルートソロのインプロと、シンセのシークェンスとを並置、対置した曲がある。彼はこれのシンセパートを全く余計だと言い切った。彼自身、自分の存在の証しを現実に刻み付けるために演奏してる、みたいなことを仰っていた。サックス奏者でありながら喘息をお持ちで、いつまで演奏を続けられるか、謂わば「命を削りながら」の演奏生活だったから、というのもあったと思う。彼の、半獣のその曲への評を伺って、フルートパートは彼の考える「演奏」に合致し、それだけで成立しており、これがつまり「ジャズ」なのだな、と思った。いっぽう私はこれを「造形」として聴くから、2つのパートを並べて提示するのはアリ、としか言いようがなく、つまりこの曲は私にとって「ロック」なのだ。

余談だが、Genesis 'Dance On A Volcano' のドラムについて、彼は批判の意味で「インテンポより遅れがち」と仰った。ちょっと何言ってるか判らなかった。もしかしたら「ためる」という発想はロックだけのもので、ジャズには無いのだろうか?ちなみに別のところで小耳に挟んだ情報として、ファンクでは「スネアをためる」のではなく「キックを食い気味に」という捉え方、と聞いたことがある。

 

数学とロックは若者の仕事。 

デビューとその後数年がいちばん正しいのがロック。

晩年ほど独自になるし先鋭的になるのがクラシック。 

片や、『宮殿』でデビューしたバンドが、独自と先鋭を極めるまでに、わずか3年。

片や、ドビュッシーは、『遊戯』『室内ソナタ』『プレリュード第2巻』こそ、最もドビュッシーだ。

既存のジャンル分けによるロックとクラシックに、上記が当て嵌まるか、ではなく、逆に上記の定義に随ってロックとクラシックの間に線引きをしたい。

ロックとクラシック、どちらも「作曲家のもの」だし「内発」なのに、何故この差が出るのか?

「作曲」の要素のうち、「外部」に耳を貸さず「私」を衝動のまま未分化のまま馬鹿正直に突沸させる要素をロック、「内部」にある「私」ならぬ声を時間を掛けて排除し「私」の純度を高めてゆく要素をクラシック、と定義する。

 

まあこの過去記事

で「ロック=正直・真実」 と定義した。これがいちばんシンプルでいちばん正しいと思う。