前回の記事、最初文案がトータルで頭の中に降って来た時、多岐に亘るし分量も多いけど、勢いで一気に書けそうな感触だった。
ところが、準備作業が多かった。打込み(ごく簡単なものとはいえ)、SoundCloud へのアップ、ワールドのスクショ、なにより手こずったのは苦手な「お絵かきの森」での譜面書き。
それらを済ませて、「記事を書く」作業に取り掛かってみると、「勢い」だけでは書けない気持ちの状態になってた。
書くべき内容は憶えてたのだが。
どうも、降って来る文案というものは、言い回しとか、話の運び方とか、なんなら「脱線のしかた」も、込みのもので、そこの「ノリ」を忘れると、スムーズに書けない。
論旨が明確だからスムーズに書ける、というわけではないようだ。
言い回しの思い付きひとつをきっかけに文章が形を成し始める、ということがある。これをどう評価すべきか? 書けてる気になってるけど、本当に意味すべきことを意味し得てるのか?
過去記事の再現を試みる場合、論旨は尽くしてるのに、ある言い回しひとつを思い出せないせいでポイントを抑え切れてない、ともどかしくなることがある。
この場合、ポイントと思ってたのは実はポイントでもなんでもなくて、むしろレトリックの勢いに頼って書かれた部分だったのであり、論旨の明確のためには排除されるべき部分だったのだ、と思うことにしてる。
言い回しのせいで意味のあることを言ってるつもりになること。そこに「美」は無い。
レトリックの功罪。
というわけで前回、話の各モデュールを形にするにも、モデュール同士の並べ方繋げ方にも、手こずったし、投稿後も手直しし続けた。作業も、出来上がりも、無骨だった。
投稿後の手直しは毎回のことだけど。
上手く書けなかったということをネタに今回1記事でっち上げる。転んでもタダでは起きない。
「書き変えによって変化し続けることを本質とする作品」というのがあり得る、といま思い付いた。これは気の利いた思い付きかも知れない!