明日にの期待、明日をの展望

ただ素直でありたい。

ブログもそうだし、常日頃「当り前に考える」ことだけやってる。

当り前に考える結果、世間のコンヴェンションとぶつかり、「ひねくれてる」と評されることもある。致し方無い。東京致し方無い学。

 

 

明日「に」期待し、明日「を」展望する。なのに、明日「への」期待、明日「への」展望と言う。

明日「にの」期待、明日「をの」展望と言うことを日本語は何故許さないのか。

 

「~への~」という名詞句的言い回しは翻訳文的に響く。歴史が浅いのかも知れない。「明日に期待する」という平叙文を名詞句的言い回しに変換する時の手続きを熟させ定着させるのに、性急だったのかも知れない。

どこまでも憶測だけど。

 

一方では、論理的に考えて可能な、というか寧ろそっちであるべき言い回しと、実際に行われてる言い回しとの差を炙り出す。

他方では、何故その言い回しが採用された/されなかったのかを歴史に問う。

私は思い付きを放り出すだけで、実際に「歴史に問う」追究をしてないけど。

 

 

以上の話題を、親友の一人に持ち掛けたことがある。

ひとしきり説明したあと、彼女からの返しはひとこと

「『への』じゃないか?」

だった。

彼女は言葉について意識的で、話を共有できるという期待が大きかった分、がっかりが大きかった。

 

思えば彼女のスタンスは、意識的といっても多分に保守的で、「正しい」言い回しを「一通りに」決めたがってた。彼女自身の感覚が基準なのはいいんだけど、その感覚が慣習に従順で、それに照らして正当かどうかを決めたがってた。

現行の日本語が「乱れてる」と感じ、そう感じる前提として「正当」がどこかにあると思い、あるいは作るべきだと思う立場。

彼女は、例えば「ら抜き言葉」に批判的だった。でもなぜいけないのか、論理的に説明することはしなかった*1。自らの感覚が根拠なのは、もう一度言う、いいんだけど。

 

「実際に行われてる慣習をいったん措いて、仮に論理を貫徹してみましょう、そこから『正しい』言い回しとは何か、考えてみましょう」

私が言いたかったのはこれなんだけど、通じなくて、

「いや慣習ではこうだよ」

と話を振り出しに戻されてしまった。

シンプルにウザがられて、さっさと切り上げられた、というのが実情かもだけど。面白がってもらえると思ったんだけどなあ。

 

私が言いたかったこと、「論理を貫徹してみる」、つまり「当り前に考える」ということ。

*1:ら抜き言葉」を論理的に否定することは誰にも出来ない。ちなみに私自身「ら抜き言葉」を使わないが、他人様がお使いになるのを批判はしない。