ピグワールドの「もようがえ」(建物やデコレーションで街の景観を作ること)に凝り始めた。そうすると、ピグワールドが現実の雛型というより、ぎゃくに現実風景が「ピグワールドっぽい」と見えてくる。これは現実と虚構が私の中で逆転し始めた、危ない兆候だろうか?
西小山の、小さな建物が隙間を惜しんで詰め込まれた街並からしたら、八千代台の街並は、空間の取り方にゆとりがある。当初「焦燥」に似た危機感を覚えた。創作における「『間を詰める』は正義」を、この住環境の冗長・散文性に浸食されてはならない、と。
でも私の今までのこだわりは、硬直して、発想の出口を塞いでたかも知れない。環境の「あそび」が、創作にプラスに影響する気もしてきた。
ピグワールドは、街を1方向からしか見られない。
「もようがえ」の時は都市計画者として作り込むけど、見る時は画家か写真家の視点で見てる。
おもてに見えてる街の絵柄、色と形の構成、これをこれとして純粋に楽しむ、という視点。ビルの背後にあって、ビルの上からてっぺんだけ見えてる赤い三角形は、タワーなのか火山怪鳥バードンなのか判らないけど、絵柄の美に貢献してる、という見方。
でもこのように色と形が並んでるについては、街の機能の必然がある。
おもてから、1方向からでは見えないもの。
ワールドの、「住む街」と「絵柄として見る街」の相容れなさ、二面性を考えてて、ふと思い出した、ごく若い頃の詩作の断片。
「さっき風景の一部だった場所に今立ってる」
これを思い付いて、メロディを付けてメモしたのは、何年前だったか?
今回、簡単に打ち込んでみた。
歌い出し。原調はロ長調。
サビ。「バイメタル ララ 弛緩と緊張 潰えたる宇宙の卵は」
歌い終わり。「僕のバイメタルはまだ恋の余熱に軋んでるってのに」
これを仕上げることはしないだろうな…
ポップ1曲仕上げる手間は大したものではないが、人生の用事の優先順位からいって、これを仕上げる機会が訪れないことは確実だ。
メモ帳の断片たちは、殆どはそのまま埋もれるために、メモされる。
友人と親密な会話で過ごす。立ち去るとき車で彼女の脇を通り過ぎる。車窓の風景は映像作品のようによそよそしく現実感がない。沿道で手を振って私を見送る彼女はその映像の一部分。
さっきの、現実の息づかいを持つ彼女は、端的に言うと、死んでもらっては困る存在。
いま、スピードを増した車の窓を一瞬で流れ去る彼女は、そもそも生きているのか?
ピグワールドやピグライフは箱庭療法の箱庭っぽい。もしかしたらここに私の無意識がダダ漏れになってて、分析方法をご存じの方に深層心理を読まれてしまってるのかも知れない。
私の街の特徴は、計画性が無いこと。
他所様の街は整然としてる。縦横の道路に区切られた街区に、建物が、種類ごとに、カタログの順番に並んでる。
トータル何軒建てるのかも、そのために必要な土地の広さも、予め判るのだから、それを見越して計画的にやれる。
そういう方の街は四角い。
↓私の街。
チュートリアル終了時点の街並の痕跡が判るでしょ?
計画されたレイアウトじゃないということです。チュートリアル終了時点の状態に続けてクエを場当たり的にこなし、さしあたり空き地があれば建物をぶっ込む。いちおう商業地域と住宅街を分けて建てても、限りある土地の中ですぐにぶつかり合って、二進も三進も行かなくなって初めて土地を拡張する、ということを繰り返した結果です。
四角くない。部分の積み上げ、内側からの膨張の結果の、不定形の街の輪郭。
成り立ちとして、京都やパリよりも江戸に近い。
上端の一角は「ロンドン」というカタログによっていて、まだしも整然としてるが、住人は1人もおらず、ゴーストタウン。
左端は水族館、植物園などを使って造成中。
私の家は、白鳥の池の畔の、ここ。
いやワールドやってる暇あったら曲仕上げられるんじゃないか?
追記
私はピグワールドの「設定」の「街の説明」に、
「宇宙の仕組みは解るけど 街の仕組みは解らない」
と書き込んでる。
宇宙の仕組みは「きまりごと」、街の仕組みは「きめごと」。
ローカルルールのくせに普遍を標榜する「きめごと」の化けの皮を剥がし、「きまりごと」に即すること、これがユーモアの機能でありロックの機能だ。
おもてに見えてる現象よりもそれをそうあらしめる仕組みを問題にするのは、音楽でいうとヴェーベルンとか。
ドビュッシーは「きまりごと」に即する「天然」に見える。ヴェーベルンは「きめごと」を操作する「知性」かも知れない。
現象を仕組みから解放するのが、サイケ。現象が沿ってるのはきめごとの仕組みだけではない、もっと遠大なきまりごとの仕組みがある、と示して見せる、というべきか。
街を「もようがえ」してると、「図」として扱う建物やデコが、容易に「地」に転換し得るのに気付いて、サイケだなあと思う。
「タワーなのかバードンなのか判らない赤い三角」をどう扱うか。
街の仕組みに沿って、タワーとして扱うなら(それが表に見えなくても)、ヴェーベルンだ。
画面を構成する赤いドットとして扱うなら、スーラだ。
「赤」「三角」を介して無辺に関連する、ものの見方の自由をコンセプトにするなら、サイケだ。
私自身はどれでもない。「コンセプトが無いこと」も私の街の特徴だ。その場その場の美的感覚をディテイルに対して働かせること、だけ。ふつうに街っぽいし。街であることに囚われず奇抜に造形していい筈なんだけど。
さらに追記(2017年10月14日)
「僕と私のバイメタル」のその後:
「『ポップ』として仕上げる」ことには失敗してる。