ピグワールド「ニュータウン」エリアに小学校を建てた。
「はじまりの街」エリアの小学校にスペースを割かなかったのを悔んでいた。
たんにスペースの多寡の問題ではない。発想の違い。
「制約の中でいかにクリエイティヴィティを発揮するか」と、「制約を外してやれること全部やる」と。
「制約の中で」というのは、美学ではあるし、私はそちらに傾きがちだ。
ことにアメーバピグは、ゲームのプレイに必要な最小限のサーバを確保してないので、街を「軽くする」ことに配慮せざるを得ない。
でも他所の、制約(土地の広さの、サーバの容量の)を気にせず全部とことん盛り込み、規模が大きく、しかも細部の作り込みのために「デコ」を総動員した「街」を拝見すると、自らのイマジネイションの萎縮を思い知る。
そういう「街」は、読み込みに時間がかかるし、動作が緩慢になるが。
国の芸術のクォリティを極めるのに、人件費の「制約」を外してやってみることは、いったんは必要だったと思ってる。それを可能にしたのが天皇の存在だったと思ってる。
今の天皇にその力は無い。歴史の話(正倉院御物とかそういうのをイメージして言ってます)。
天皇のおかげで可能になった芸術なら要らない、という立場もあろう。
収奪も人権の侵害もあっただろう。
芸術は、クォリティの極点を見るために、いったんは、人権の上位に自らを置き、それを侵害してでも徹底的に突き抜けねばならない時があるのだ、と私は思ってる。
バスケコートのように見えるのはバーリトゥードのケイジです。