私は楽器で作曲することがない。
いや、キーボードに向かってやるわけだけど、キーボードから発想するわけではない。
曲は私の中から来る。それを形にするのに、キーボードの並びが都合がいいだけだ。
なのだが、ヴァイオリンの場合、その調弦法から発想される音組織の眺望というのがあって、キーボードに向かって12の音を平等に俯瞰しながら作るのとは違う地平に立ってる、ということがありそうな気がする。
g-d-a-e、完全5度間隔で調弦されてる。
ヴァイオリンを使って作曲することによって、「5度圏」的、リディア旋法的な発想で、カデンツの陋習に捉われずに音組織を考え直せるのではないか?
で、ベルクのヴァイオリン協奏曲です。
なぜあの出だしなのか。
じつは初めてあの出だしを聴いた時、違和感を持った。
不純だと思った。
内発的に必然的に選ばれた音程じゃないと思った。
さいきんふと、それに加えて、別の感想を持った。
ドデカフォニーは、和声音楽(T、D、Sのカデンツから始まってヴァーグナーの半音階的転調のどん詰まりに至るまでの)の遺産の重みを、引き受けつつ、改革するものだ。「人為による操作」の中に閉じている。
いっぽうリディア旋法は、サブドミナントを持たない、随って「ドローン」音楽と親和的だ。「音の物理」に開かれている。
相容れない*1。
ベルクの意図はどこにあったんだろう?
もし、12音音楽が最も広大で、5度圏的リディア的ドローン的音楽も、その中に包摂される、と示したつもりなのなら、ちょっと待て、とは言いたい。
(おわり)
追記 補足でもう1回続きます。