ドビュッシーのホールトーンがシェーンベルクのドデカフォニーを準備した、という言い種がある。
オクターヴを等分する。
それを、縦に和声にも、横に旋法にも、使う。
この言い種に対して私が抱く違和感について書くことが、私のドビュッシー観を書くことになる筈。
客観的で正確なドビュッシー論は目論まない。私にそれは無理だ。
私の目下の関心を書くのに、ドビュッシーをダシに使う、というべき。
もし時代の制約、技術の制約がなかったら、もしかしたらドビュッシーは倍音列で書いたんじゃないか?と思うことがある。
初期から9の和音を多用する。これは倍音列に(近似値で)沿う。
彼の最も知られたトレードマークであるホールトーンですら、無理を承知でいえば、倍音列由来なのでは?
倍音列では、(近似値で)シ♭、ド、レ、ミ、ファ♯、辺りに陶然となるが、これにソ♯を加えればホールトーンが出来る。
平均律で作曲しながらの、そこから倍音列への精一杯の憧れの表明、みたいに聴こえてしまう。
ホールトーンは調性の中心をなくすのに都合がいいのに、ドビュッシーは決して無調へは向かわなかった。
プレリュード第1巻第2曲「ヴェール」ではホールトーンに拠りつつ終始ベースがシ♭を強調する。ホールトーンでやってる限り、ベースが即トニックに聴こえるし、ベースでトニックを示す以外に、調性を示す方法がない。で、ドビュッシーはそれをやってる。
つまりここには「カデンツ」が無い。「ドローン」の音楽だ。
ドビュッシーはまず何よりも「耳を澄ます」人だった。
音の出来事をありのままに聴きとる耳でもって、音楽の音組織を、音の物理にまで遡って、根本から組み直す。
「音楽」を包摂しつつ広大で、無限に多様な「音」の世界。
ドビュッシーが自由な耳で拓いた広大な世界を、シェーンベルクが、もう一度、ドデカフォニーの「人為による操作」の中に閉じ込めてしまった。
ドビュッシーがホールトーンでオクターヴを6等分しつつも(まるで倍音列みたいに)トニック=調性の存在を指向したのに対し、シェーンベルクは、12の音を平等に扱い調性の中心を作らないことのために、オクターヴを12等分する。つまり平均律が大前提になる。
ドビュッシーもシェーンベルクも平均律で書いたのに、ドビュッシーにはそこから逃れようとする自由の人像を押し付け、シェーンベルクには教条主義者の汚名を着せるのは、まったくの私の偏見です。
あるいはシェーンベルクは、オペレーションのためのポイントを12個置きさえすれば、響きそのものには興味がなかったのかも?
シェーンベルクは改革の人だけど、伝統に連なりつつの改革で、ドビュッシーみたいなド外れた天然ではない。
(つづく)