「びよ~ん」にせよ「ガチョ~ン」にせよ、擬音語ひとつで片してしまう耳の注意力の粗雑さこそが音楽の敵だと思います。
「私たちの森」
森での暮らしの技術にもともと長けていて、そこが自然にふるさとと感じられるということなのか、
あるいは、
もしかしたら、民族浄化から自らを守る「砦」が、森なのでしょうか?
ひとつ、動物に関しては、感情移入といえばそうなんですが、単にカワイイというのとちょっと違ってまして、街でもカフェでも島でもない、他ならぬライフをプレイするのに、所詮ゲームであっても、生き物を扱うリアルなセンスが根底になければ、そもそも楽しめないだろう、という思いです。
そこを抜かすと単なるクリック操作だけの世界になって、いたずらに効率を求めるようになるのかなあ、と。
昨日のお写真拝見した時も持った感想ですが、月のある風景画が横に平面にあるのではなく、闇の空間を、月と見る者との間に、光の道が筒状にドーンと貫通してる、という印象です。
そうか!日常の有用性の世界では「早い」は目的で「速い」はその手段ですね。私自身は寧ろ「速い」そのものを目的にして歩くことを楽しんでますが。
私は螢を見たことがありましたが、いまぐぐって「ほたるこい」の歌詞の2番を初めて知りました。ただ「天竺あがり」の意味は判りませんでした。目前のホタルの動作の様子を表す言葉なのか、「お伊勢参り」「メッカ巡礼」のような「天竺あがり」なのか。
ほたるはひとのたましいなのだから、そのたましいがふるさと「天竺」へかえってゆくイメージでしょうか。
記号として流したくない言葉、立ち止まり踏みとどまって大切に吟味したい言葉をひらがなにする、ということがあるように思う。ほたる、ひと、たましい、ふるさと、が同属の言葉に見えてきた。
図案化の元が文字だったり形象だったり、同じ「地図記号」のカテの下に並べられていてもそれぞれの出自を背負ってるのが面白いです。新しい記号は公募で小中学生の作とありますが、抽象度が低く、物の形まんまやんけ!というのが可愛いです。
ペロタンのオルガヌムにおけるカントゥス・フィルムス(定旋律)は長く長く引き伸ばされて、人間が聴くためというより、神に捧げた、神が聴くためのもの、と思える。人間の時間の尺度じゃない。
私は調べ物はしない人だ。ささげとあずきの違いについて、調べないぞ。
ホーム・センター【home centre】〘名〙世界を動かすあらゆる機能を分類し並べる、小宇宙。造形の類似と相違を、昆虫図鑑みたいに端から眺めて歩く至福。
初心者という意味なら誰しも最初は「にわか」だし、迎え入れて導いてあげる。メディアの上滑りの情報に基づいてコンシュームしにかかるのが「にわか」なら、ムカつくし、断固排除する。
幼い頃、リアリティは自明な為に意識されず、そこから離れた今ふと喚び出される時に初めて意味を持ち、感動がある、のでしょうか。弁別されたリアリティに住むこと=ヒトをやること、なのでしょうか。
語尾とは「関係」(相手との、場との)だと思いますが、私が「ね」「よね」を嫌うのは、相手を共犯に巻き込む、個人の責任において言うべき意見を一般論にすり替える企図です。日本語がこれを犯しやすいのかと思ったら、「不思議の国のアリス」中の、アリスと芋虫のやりとりにも出て来ます。アリスの "~, you know." という語尾に対して、芋虫が "I don't know." と返す場面です。
家具は、それ単体のデザインに期待するのも勿論ですが、カフェをデザインするための「素材」でもあって、これを使って如何に空間を作るかはひとえにユーザー側のセンスです。
ショボいとおっしゃる方は、ご自分のデザインセンスがショボい、というケースも、中にはありそうです。
スタッフのデザイナーさんが、実際のカフェの中に置かれたときに最大に生きる、ということを熟慮なさってのこのデザインなのは間違いないです。
あ、勿論今回の家具は単体としてもとても気に入ってます。
最初の「このまま、くじらと一体に」の感覚が私にはまず印象付けられて、これはこのあと表だって展開されないけれども、この感覚がずっと基調として鳴っていました。この世界とあの世界の呼応のことなど、また改めて感想差し上げたいです。
母娘という言葉が判らない。「母」「娘」は「誰から見て」の基準点が与えられて意味を持つ言葉なので、「女性とその娘」または「女性とその母」という言い方しかあり得ないと思う。
「仲秋」は陰暦8月全体をも陰暦8月15日をも指すようだが(広辞苑に両方載ってる)、後者は「仲秋の名月」というフレーズから来る、むしろ誤解に近いものじゃないか。というか「仲秋の名月」という場合以外に「仲秋」を「陰暦8月15日」の意味で使う例があるだろうか?
「お尻を出した子一等賞」の不条理をあげつらうのを目にするが、あの歌詞は「お尻を出した」=原因、「一等賞」=結果、とは歌ってないのである。
私が勝手に解釈していたのは、お尻が出るのも意に介さず、あるいは自覚出来ぬほどに、かくれんぼに没頭する、という意味かな、と。にしても、本当に、かくれんぼにおける一等賞とは何なのでしょう?
進行方向に虹が出てて、すれ違った人(知らない人)にそれを教えてあげなかったことを数年間引きずってる。実行してたら不審者と思われただろうけど。
今redとthreadが韻を踏んでるのに気付いたけど運命の赤い糸って中国由来か。英語ではthreadじゃなくてstringか
まあこれはウケないです。ロケ地が東中野、というネタなんですが
組み立て途中か、解体後か。完全体を復元する想像力を働かせるべきか、これそのものの形と質感、「景色」を愛でるべきか。
ヴィジュアルのインパクトも重要ですが、目を閉じて聴くと、音の微細なディテールで報いてくれて、マンション建設工事の現場の音風景みたいに美しいです。
「作業の副産物としての音」と「それを『演奏者』として意識しコントロールすること」とのせめぎ合いがスリリング、とも感じます。楽器を物理的に「壊す」こととそれによって音楽を「産む」こととが一体です。
音楽史上よくある、無骨な天才と器用な秀才の組み合わせでは、前者に惹かれます。後者の存在が与える前者の創作への刺戟を考えれば、ムソルグスキー+リムスキーは、少なくともレノン-マッカートニー程度には良いコンビだったのでしょうが。
モンクと鳥の関係について考えたことがなかったのでハッとしました。仰る通り、音形の模倣とは違って、鳥の「無心」に憧れつつも、ヒトであるモンクはどこまでも意識でコントロールしてのこの唱法というか。
高低差というものが、崖として現れるにせよ、坂として現れるにせよ、好きです。
「食感」の語を使う人は、感覚が未分化で未熟なのか、感覚を言語化する能力が未熟なのか、どっちだろう?
私も引っかかるのは詞の話者の視点です。いっぱんに、詞でも小説でも、話者=主人公で、他の者の考えは主人公の視点からの解釈の域を出ない場合と、まるで神の視点のように全ての登場人物の考えを「あるがままに」示す場合とありますが、やぎさんゆうびんの歌詞の場合、「読まずに食べた」が恰も客観的事実のように、疑えない事実のように語られるけれども、本当は読んでないんじゃないか、という疑念を挟む余地があるのなら、かっぱさん仰るような解釈が、一番納得がいく気がします。
サスペンスドラマなどで、憎い相手が苦しみながら死んでゆくのを見てほくそ笑み、ほくそ笑んでいる自分を相手が見ているシテュエイションを以て満足する、というシーンを観ながら、この、相手に思い知らせたいという感情は何だろう?と思ったものです。単に憎い相手を消すだけでなく、
ここには、憎しみの対象との間の「コミュニケイション」欲求がある、憎しみを「理解されたい」感情は何なのだろう?と不思議でした。憎しみが成立する条件として、相手を相互理解可能の者として認める、ということが必須なのでしょうか?
やあ!ボク、タコのアヒージョ。「あぶらだこ」って呼んでね!
私の記憶の中では、道重さゆみさんは昔CEOという3人組ユニットのメンバーで、ニックネームが「プリンちゃん」なんだけど、ググってもかすりもしないので、やはり記憶の捏造なんだろう。
一生ディズニーランドの中に閉じ込められるのと、一生ディズニーランドの中に入れないのと、どっちを選ぶ?
京都生活直後の東京は方向を常に意識してなきゃで軽くストレスだった、というのは、京都(といっても長岡京市)の道が、恐らく条里制の名残りで東西南北に沿ってて、その感覚がデフォだった、自分がどの方角を向いてるか無意識裡に把握されてた、それが東京で使えなくなった、ということです。
東京の街の無秩序で無際限な増殖のしかたが、たぶん京都やパリより、好き。街路が直交してるかどうかは、どうやら、時代的に、太閤検地が境目みたい。
1つの価値で完結すると不健康なんでしょうか。開かれてるとかダイナミズムとか、異物・攪乱者の闖入とかが重要なのか。東照宮(だったか)が、「完璧すぎると間がさす」とかで柱をわざと1本逆さにしてある、というのを思い併せます。
夢で「キンダーブレット」なる語が出て来て、Kinderbrettでググると(目覚めてから)、動物のイラストがたくさん出てきたが、サイトはドイツ語で何の商品か判らなかった。