日記

好き!*1

Fad Gadget という名前だけ知ってた。まだつべで数曲聴いただけだけど、その中ではこの曲がいちばん面白い。

 

で、歌い出しの歌メロでこれを思い出した。

原曲はドビュッシー「夢」。1890年作曲。ごく初期だし、生活のために書いたといわれるし、ドビュッシー自身が後年「やっつけ仕事の粗悪品」といってる。

私自身はこの曲の CD をもってない。つべで聴いた範囲で、アリス=沙良・オットは、清潔で静かで、いいと思う。

サンソン・フランソワには、案の定、腹が立った。演奏者の身勝手で作曲のデッサンを崩すな。

 

実家にはスウィング・ジャズのヴォーカル物の LP が2枚だけあった。↑の 'My Reverie' が入った Bea Wain の1枚と、The King Sisters の1枚。

'In The Mood' のスネア・ドラム、0'23"、2'14"、2'35"、2'56" の強打にびっくりした。これが「私の理想のスネアの音」になった。ぜろわんくんの打込みでは真似出来ない。

 

Fad Gadget と同時期の、Virgin Prunes*2。1982年リリースのシングル曲。このライヴが何年か咄嗟に判らない。

このバンドも名前でしか知らず、ラフ・トレードの有象無象のワンノヴと高を括ってた。ちょうど5年前に初めて聴いてのけぞった。アルトーに傾倒してたらしい。

 

*1:追記 2023年04月02日 これセットだと思ってたけど、もしかしてロケなのかな?

*2:追記 2023年04月02日 バンド名に The は付かないみたい。

「コード進行」を忌避する

Depeche Mode にこんな深い表現があったとは。

こちらの御記事で知った。

お貼りになってる曲のどれもが好きとはゆかないけど。

 

ただ、出だしの「インダストリアル」感で「おっ!」となるぶん、曲が進むにつれて「曲」っぽくなってゆくのを、「余計な成分」と感じてしまう。

0'54" 目で、それまで深いリヴァーブの奥の奥でむしろ効果音的だった「コード」を弾くパートが前面に出て来て、その後「コード進行」になってゆくと、白けてしまう私がいる。

いやこれ Depeche Mode なんだから。Cabaret Voltaire じゃないんだから。筋違いな期待なのは判ってるんだけど。

だいいち、2'02"~ 2'29" のコード進行は、コーラスの音形とともに、ほんとうにハッとする美しさだ。

 

なんしろ私は、コード進行というものを忌避する性向が強い。

ひとくちにコード進行といっても、良いコード進行と悪いコード進行があって、既存のコードを選んできて並べるとか、そのチェンジが小節単位であるとか、が私はダメなのだ。

響きを新たに発見してゆく、鍵盤をまさぐりながら響きをひとつひとつ「身分の耳の責任で」選んでゆく、そのプロセスが乃ちコードの「進行」である、というのは良い。

 

この曲も、好きなんだけど、1'15" 目に短調まる出しのコード進行が現れると、いやそういうの要らないから、と思ってしまう。

この曲のつべ、まえに探した時は英語ヴァージョンのしかも音質がいまいちクリアじゃない気がするやつしか見つからなかったのに、あるじゃないか。

 

ところが、その私が、これの 1'26"~ は OK なのだ。1小節単位のチェンジだし、典型的に白玉だし、なのに私はこれを「敢えてする《造形としての》白玉コード」と見做し、積極的説得力を認めてしまう。偏見だろうか?

聴いてない

10代の頃に聴いたものは、どこでどんな音が鳴ってるか克明に憶えてるし、脳内で完奏できる。

20分の 'Close To The Edge' や 'The Gates Of Delirium' を。

 

今新たに聴くものは、そういかない。むろん積極的に最大の集中力で聴くのだけど、ここ数年聴いたもので「そらんじる」までに親密になったものってほとんど無い。

断じて現在の音楽シーンが1970年代に較べて名曲に乏しいのではないし、また、私の「記銘力」が落ちたというだけでもなくて、作品への対峙のしかたが変わった。「かけがえのない唯一のものとして向き合ってる」か、それとも「知恵がついて、体系の中の位置付けで聴いてる」か。

 

作品「そのもの」を聴いてた。だから切実に親密なものになった。

Pink Floyd 'Breathe' のシンバルレガートやタム回しに、「それそのもの」、体系の中に位置づけられ他のものとの比較で評価されるのではない「かけがえのないもの」として出会ってるために、その美しさを「疑う余地がない」。

もし出会いのタイミングがずれ込んでたら、「Mason なんて Bruford に較べればフレーズの作り込みに意欲が無い、プログレの仕事をしてない」という評価が先に来て、本当の意味で「出会う」本当の意味で「聴く」ことにならなかった筈。

 

昔は情報が限られて、知ってる曲数が少ないことが幸いして、1曲にかかずらう時間が長かった、というのが最大の理由かもだけど。暇だったし。

聴き方の変化は、寂しく思うべきなばかりではなくて、偏った個々の思い入れを脱して公正に評価できるようになった、ともいえるのだけど。

 

 

これは全く私の言い方の責任なのだけど、「高く評価しない」を意味するために「聴いてない」と言うことがある。

「アルバムひととおりは聴いたけどそれ以上深く聴く気にならなかった」「数曲聴いてみたけどそれ以上掘る気が起きなかった」から「聴いてない」。

 

「聴いた」と言い切ることは重いことで、不用意に口に出来ない。

「聴いたの? じゃあ第17小節のピアノ・パートとフルート・パートのハモリについて、音量バランスは妥当だと思う?」と訊かれて、即答できるようでなければ「聴いた」と言ってはいけない

なので私は

Kate Bush は "The Dreaming" 以降しか聴いてない」

と言ったのだ。すると

「"Never For Ever" もオススメですよ。アヴァンギャルドとポップのバランスが」

とご親切なアドヴァイスを頂いたのだ。

むろん、もう一度いうと、責任はあくまで私の物言いにあるのだ。

*1

*1:空耳アワー」での空耳作品をつべにお上げになって、空耳のフレーズを動画のタイトルになさってる場合、その文言を改変なさってるケースが非常に多い。それが作品への冒涜だという認識をおもちじゃないのか、あるいは何か積極的な理由があってのことなのだろうか?