「音楽家は自意識が言葉でなく音で出来ている、と言えるか」
「言えない」
と結論づける、みたいな件が出て来るのは、村上龍「気ままにいい夜」(TVのトーク番組の単行本化)だったか?
数学の天才って、もしかして、数を数そのものとして考える、ということが出来るのかな?
自意識が数で出来てる、と言わないまでも。
私はどうしてもグラフ化してしか考えられない。
数の各桁の数字全部の和が3の倍数になればその数は3の倍数、和が9の倍数になればその数は9の倍数、という「法則」に価値はない。
10進法の中だけでしか成り立たないから。10進法の網目とのモアレみたいなもので、数そのものの性質についての考察ではない。
この過去記事
で、
「私が数学に求めるのは、それ自体が自律的で、純粋な世界であること。
ヒトの身振りが関与することで、純粋な思考が阻まれることのないこと。」
と書いた。10進法はまさに、たまたまヒトの指が10本だから採用されてる。
にしても、この「純粋」というのが訝しい。私はグラフ化なしに数を考えられない。ヒトは「数そのもの」を考え得るものなのか? もっとも純粋な最も抽象的な意味での「数」を。
芸術は数学や建築に憧れる。
数学や建築の土俵で争えば数学や建築が勝つに決まってる、とはいえ。
数学は、1か所間違えば論証全体が無効になる。建築は、建たねばならない。
芸術は無茶であればあるほど良かったりさえする。矛盾を矛盾のまま提出することが「表現」たりうることさえある。
自殺していいのは芸術家だけだ。
逆に、自殺という選択肢を持つものを芸術家と定義するのだ。
まず、哲学者は自殺してはならない。
自殺によって、業績を自ら全て否定することになるからだ。
職人は自殺してはならない、というより自殺するはずがない。
職人は過たない。
職人も生活を持ち、生活上の悩みがあるが、それゆえに自殺に至ってもそれは生活人としての自殺であって、職人として死ぬわけではない。
芸術家に死が許されるというのは、芸術を突き詰めた帰結として死を選ぶということがあり得る、という意味でだ。