よわい

密秘さんに

 

 

「弱点」「攻略するならこのポイントから」

 

心惹かれる対象を持つとき、その対象に「よわい」という言い方をする場合がある。

 

本来つよくあることを期待されるから、それに沿えず「よわい」と評価される。 

「主義」の「意識」で叙情派シンフォへの否定を貫いてるとき、この曲を示されると、私の「気質」は抗えない。

この曲に私はよわい。そうなったについてはなにがしか個別の事情があった筈だが思い出せない。

意識が殊更にそこから身を守ろうとするのは、そうしていないと気質が付け入られるからだ。

 

「よわい」を言い換えるとしたら。

「感じやすい」というとアクティヴな「つよさ」とも思えるが、「動かされやすい」はパッシヴな「よわさ」なのだろうか。

落ちる夢

「落ちる夢」を2回たて続けに見た。物理的に落下する夢じゃなく、2つの夢がそれぞれに含むシーンが「落ちる」のテーマで括れる。

と文章を頭の中で練り始めたところまでが夢。イメージ豊かな記事を書けるはずだったが具体的に思い出せない。ワンシーンだけ、走り込んだ部屋がコンサートの真っ最中で、静寂を基調とする現代曲が演奏されていて、切らし気味の息遣いや後ろ手に閉めるドアの音を抑えるのに苦労する、というシーンが記憶に残った。客席に風格のある老人、演目の作曲者ジルベール・アミだった。ご存命だったんだ、と思った。

 

コンサートホールではなくバーのような場所。

その場の皆は、ある長さの時間、静寂を過ごして今に至っている。

走り込んだ私と、彼らとの間で、最弱音の基準線に落差がある。「抑えるのに苦労する」とは、その私の基準線を場のレヴェルにまで引き下げるのが先決、でもそれを即座には実現できない、というシーン。

レトリック

前回の記事、最初文案がトータルで頭の中に降って来た時、多岐に亘るし分量も多いけど、勢いで一気に書けそうな感触だった。

ところが、準備作業が多かった。打込み(ごく簡単なものとはいえ)、SoundCloud へのアップ、ワールドのスクショ、なにより手こずったのは苦手な「お絵かきの森」での譜面書き。

それらを済ませて、「記事を書く」作業に取り掛かってみると、「勢い」だけでは書けない気持ちの状態になってた。

書くべき内容は憶えてたのだが。

 

どうも、降って来る文案というものは、言い回しとか、話の運び方とか、なんなら「脱線のしかた」も、込みのもので、そこの「ノリ」を忘れると、スムーズに書けない。

論旨が明確だからスムーズに書ける、というわけではないようだ。

 

言い回しの思い付きひとつをきっかけに文章が形を成し始める、ということがある。これをどう評価すべきか? 書けてる気になってるけど、本当に意味すべきことを意味し得てるのか?

 

過去記事の再現を試みる場合、論旨は尽くしてるのに、ある言い回しひとつを思い出せないせいでポイントを抑え切れてない、ともどかしくなることがある。

この場合、ポイントと思ってたのは実はポイントでもなんでもなくて、むしろレトリックの勢いに頼って書かれた部分だったのであり、論旨の明確のためには排除されるべき部分だったのだ、と思うことにしてる。

言い回しのせいで意味のあることを言ってるつもりになること。そこに「美」は無い。

 

レトリックの功罪。

 

というわけで前回、話の各モデュールを形にするにも、モデュール同士の並べ方繋げ方にも、手こずったし、投稿後も手直しし続けた。作業も、出来上がりも、無骨だった。

投稿後の手直しは毎回のことだけど。

上手く書けなかったということをネタに今回1記事でっち上げる。転んでもタダでは起きない。

 

「書き変えによって変化し続けることを本質とする作品」というのがあり得る、といま思い付いた。これは気の利いた思い付きかも知れない!