ピグワールドをめぐるあれこれ ※追記しました※

ピグワールドの「もようがえ」(建物やデコレーションで街の景観を作ること)に凝り始めた。そうすると、ピグワールドが現実の雛型というより、ぎゃくに現実風景が「ピグワールドっぽい」と見えてくる。これは現実と虚構が私の中で逆転し始めた、危ない兆候だろうか?

西小山の、小さな建物が隙間を惜しんで詰め込まれた街並からしたら、八千代台の街並は、空間の取り方にゆとりがある。当初「焦燥」に似た危機感を覚えた。創作における「『間を詰める』は正義」を、この住環境の冗長・散文性に浸食されてはならない、と。

でも私の今までのこだわりは、硬直して、発想の出口を塞いでたかも知れない。環境の「あそび」が、創作にプラスに影響する気もしてきた。

 

ピグワールドは、街を1方向からしか見られない。

「もようがえ」の時は都市計画者として作り込むけど、見る時は画家か写真家の視点で見てる。

おもてに見えてる街の絵柄、色と形の構成、これをこれとして純粋に楽しむ、という視点。ビルの背後にあって、ビルの上からてっぺんだけ見えてる赤い三角形は、タワーなのか火山怪鳥バードンなのか判らないけど、絵柄の美に貢献してる、という見方。

でもこのように色と形が並んでるについては、街の機能の必然がある。

おもてから、1方向からでは見えないもの。

 

ワールドの、「住む街」と「絵柄として見る街」の相容れなさ、二面性を考えてて、ふと思い出した、ごく若い頃の詩作の断片。

「さっき風景の一部だった場所に今立ってる」

これを思い付いて、メロディを付けてメモしたのは、何年前だったか?

今回、簡単に打ち込んでみた。

歌い出し。原調はロ長調

f:id:shinkai6501:20170417204727p:plain

 

サビ。「バイメタル ララ 弛緩と緊張 潰えたる宇宙の卵は」

f:id:shinkai6501:20170417204750p:plain

 

歌い終わり。「僕のバイメタルはまだ恋の余熱に軋んでるってのに」

f:id:shinkai6501:20170417204808p:plain

これを仕上げることはしないだろうな…

ポップ1曲仕上げる手間は大したものではないが、人生の用事の優先順位からいって、これを仕上げる機会が訪れないことは確実だ。

メモ帳の断片たちは、殆どはそのまま埋もれるために、メモされる。

 

友人と親密な会話で過ごす。立ち去るとき車で彼女の脇を通り過ぎる。車窓の風景は映像作品のようによそよそしく現実感がない。沿道で手を振って私を見送る彼女はその映像の一部分。

さっきの、現実の息づかいを持つ彼女は、端的に言うと、死んでもらっては困る存在。

いま、スピードを増した車の窓を一瞬で流れ去る彼女は、そもそも生きているのか?

 

ピグワールドやピグライフは箱庭療法の箱庭っぽい。もしかしたらここに私の無意識がダダ漏れになってて、分析方法をご存じの方に深層心理を読まれてしまってるのかも知れない。

 

私の街の特徴は、計画性が無いこと。

他所様の街は整然としてる。縦横の道路に区切られた街区に、建物が、種類ごとに、カタログの順番に並んでる。

トータル何軒建てるのかも、そのために必要な土地の広さも、予め判るのだから、それを見越して計画的にやれる。

そういう方の街は四角い。

↓私の街。

f:id:shinkai6501:20170417181047p:plain

チュートリアル終了時点の街並の痕跡が判るでしょ?

計画されたレイアウトじゃないということです。チュートリアル終了時点の状態に続けてクエを場当たり的にこなし、さしあたり空き地があれば建物をぶっ込む。いちおう商業地域と住宅街を分けて建てても、限りある土地の中ですぐにぶつかり合って、二進も三進も行かなくなって初めて土地を拡張する、ということを繰り返した結果です。

四角くない。部分の積み上げ、内側からの膨張の結果の、不定形の街の輪郭。

成り立ちとして、京都やパリよりも江戸に近い。

上端の一角は「ロンドン」というカタログによっていて、まだしも整然としてるが、住人は1人もおらず、ゴーストタウン。

左端は水族館、植物園などを使って造成中。

私の家は、白鳥の池の畔の、ここ。

f:id:shinkai6501:20170418102902p:plain

いやワールドやってる暇あったら曲仕上げられるんじゃないか?

 

 

追記

 

私はピグワールドの「設定」の「街の説明」に、

「宇宙の仕組みは解るけど 街の仕組みは解らない」

と書き込んでる。

宇宙の仕組みは「きまりごと」、街の仕組みは「きめごと」。

ローカルルールのくせに普遍を標榜する「きめごと」の化けの皮を剥がし、「きまりごと」に即すること、これがユーモアの機能でありロックの機能だ。

 

おもてに見えてる現象よりもそれをそうあらしめる仕組みを問題にするのは、音楽でいうとヴェーベルンとか。

ドビュッシーは「きまりごと」に即する「天然」に見える。ヴェーベルンは「きめごと」を操作する「知性」かも知れない。

現象を仕組みから解放するのが、サイケ。現象が沿ってるのはきめごとの仕組みだけではない、もっと遠大なきまりごとの仕組みがある、と示して見せる、というべきか。

 

街を「もようがえ」してると、「図」として扱う建物やデコが、容易に「地」に転換し得るのに気付いて、サイケだなあと思う。

「タワーなのかバードンなのか判らない赤い三角」をどう扱うか。

街の仕組みに沿って、タワーとして扱うなら(それが表に見えなくても)、ヴェーベルンだ。

画面を構成する赤いドットとして扱うなら、スーラだ。

「赤」「三角」を介して無辺に関連する、ものの見方の自由をコンセプトにするなら、サイケだ。

私自身はどれでもない。「コンセプトが無いこと」も私の街の特徴だ。その場その場の美的感覚をディテイルに対して働かせること、だけ。ふつうに街っぽいし。街であることに囚われず奇抜に造形していい筈なんだけど。

 

 

さらに追記(2017年10月14日)

 

「僕と私のバイメタル」のその後:

「『ポップ』として仕上げる」ことには失敗してる。

続・ふいんき

イメージが書法を決めるのではない。書法がイメージを決めるのだ。

 

自然の印象を音楽に置き換える「描写音楽」に興味がない。

その置換が可能だとも思ってないが、仮に可能だとしても、

自然が表層に見せている現象をなぞることに興味がない。

現象を成り立たせている原理を探り、これを音楽の仕組みのヒントにすることは可能かも知れない。

この場合、アウトプットが、ヒントの元になった自然の表層の現象や印象に「似ている」かどうかは問題ではない。

 

ヴェーベルンに惹かれる理由はここにある。

作曲がすなわち音楽の仕組みの提示であること。

イメージが先にあり、そのために書法を選ぶ、のではない。イメージに相応しい書法というものがあるとしたら、それは約束事に過ぎない。

ヴェーベルンの音楽は決して「何も表現しない」音楽ではないが、そこでは「イメージ」は仕組みの「結果」だし、「効果」として現れたものだ。

 

ヴェーベルンは」は自ずと「ベルクではなく」を含意する。

もちろん、ベルクが表現の人・耽溺の人であることが、同時に彼が書法の人・知性の人であることを些かも損なわないが。

 

ドビュッシーこそ、作曲すなわち書法の開拓、の人だ。

それが私にとってのドビュッシーなので、多くのドビュッシーファンと会話が成り立たない。タームすら共有できない。

チェリビダッケ、耳を澄ますテンポ

チェリビダッケシュトゥットガルト放送交響楽団ドビュッシーラヴェル、4枚組CDがあった、とまた叔母の書斎の記憶で申し訳ない。

これです。

うち1枚分が『海』のリハーサル風景だった。

完全主義者チェリビダッケと、ものすごく高性能というわけではないオケとの、緊迫極まるやりとりが聴けた、と記憶する。

リハ開始、曲冒頭、低音の最弱奏が鳴り始めた、と思ったらものの2秒でストップが掛かり、ダメ出し。

以後同様で、ワンフレーズごとに、止めて手直し、執拗に作り込む。

やりとりがドイツ語なので具体的に詳しくは判らないが。

収録時間40分間で、いったい何小節進んだの?という。

楽団員たち的には、気持ちを寸断されるフラストレイション。途中、耐えかねた楽団員たちが、ストライキというか、いったん退席する一幕、と取れる箇所もある(実情は判らない)。

本番を聴くと、リハでの彫琢、フレージングの指示が全く実現されてないので、オケの能力に限界があると聴こえる。

 

チェリビダッケの演奏はテンポが異様に遅いものが多い。そうなる必然がある。譜面を細部に至るまで正確に具現化し、それを聴き手が正確に聴き取るために求められるテンポ、なのではないか。

耳を澄ますためのテンポ。耳を澄ますことは、時を止めること。

CDを聴くテンポというより、譜面を読むテンポに近いのかも知れない。ブレーズにもそれを感じる。

指揮者と楽団員ということでいえば、ブレーズも、楽団員との関係はしばしば険悪になる印象がある。常任指揮者として就任した NYP の(それまでバーンスタインの下でのびのびとやらせてもらってたにちがいない)楽団員との、一触即発の関係とか。

 

まえに「作曲者がいちばん偉くて、演奏者は作曲者の意図を正しく形にするのが仕事」と私のスタンスを書いた。

チェリビダッケとかブレーズとかの「譜面に忠誠を誓う」タイプの指揮者は、楽団員を、作曲者の意図の実現のための「駒」として扱うので、彼らの楽器弾きとしてのプライドと、しばしばぶつかるのだと思う。

 

f:id:shinkai6501:20170411221906p:plain

これをチェリビダッケに空目して思い出したよしなし事を、そこはかとなく書きつけてみました。