「コートを着ていない人」と「コートしか着ていない人」が増えるのが春先だ。
衣服に草の種がくっついてた。こういうの何年ぶりだろう?
アレチヌスビトハギ?
こういうの撮るからだな:
写真撮るようになって、欲しいアングルのために、気付くと、ふだん立ち入らないようなエリアに踏み込んでる。
日本語は「も」と言いすぎる。
「暑さ寒さも彼岸まで」を、私なら「暑さ寒さは彼岸まで」と言う。
この「も」を要請するのは、暑さ/寒さの終わりの見えなさ(そのただ中にいる人の心理としての)で、彼岸のポイントでこれがようやく終わる、というかこのポイントの少し手前でこれを予期する、安堵と喜びの感情が、ここに盛り込まれてるんだろう。
語は厳密であらねばならない。そこに話者の主観を盛り込んでおいて、聴き手にその主観の共有を期待する態度を容認してはならない。例えば文末に「(伝われ)」と添える行いが、この態度に由来するのであれば、これは排斥されねばならない。
私のアバウトな印象だけど、日本語にはこういう、ロジカルになりきらない、語に意味以外のものを込める傾向が強くある。話者が恣意的にそれをやれる構造が、日本語そのものにある。
ジャイアンの「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」は、本来「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」が修辞として正しいと思うけど、『ドラえもん』読んだ(視た)こと無いので、原作でどっちなのか、私には判らない。もしかしたら、原作では後者で、広く言い伝えられるうちに前者の形に変わった、そう変えたくなる論理の傾向をもつ者が多数いる、のだろうか?