寝覚め、室内を見回す。目の解像がものすごく粗くなっててびっくりする。
じつはふだんから同様に粗い。寝覚め時だけざらついてるんじゃなくて、ふだんはそのざらついてるということが見えてない。
視覚が見ていることを意識が見る。
視覚の解像はいつも同じようにざらついている。
意識は、ふだんは馴化し、寝覚め時は研ぎ澄まされている。ふだんは補正フィルターが働いて、ざらつきに気付かない。寝覚め時には、ざらつきが否応なくあるがままに見えてしまう。
よく見えているから、見えていないことに気付く。
目を瞑ると見える「光の文様の流動」は、ふだんは、形は分節の無い無秩序で抽象で、動きはアメーバ的。
夢から醒めた時(目は閉じたまま)に見ると、くっきりと像を結び、時には具体的な風景でありすらする。文様にも動きにも秩序があり、特定の質感がある。流れる金属みたいだったり、織り上がってゆくテキスタイルだったり。
像や質感が、直前の夢の内容を引き継いでるのかは、微妙。
子どもの頃、「光の文様の流動」を観察していると、きまって、目を閉じて10秒目くらいのタイミングで、一隅に、赤や青や緑の数十個の光の点の集まりが現れ、チカチカと点滅した。私はそれが好きで、それを待ち構えた。数秒間掛けて通り過ぎていった。
幻は、そこに無いものがやみくもに見えるというより、ぎゃくにそこに在るものを在るがままに見て、いったん要素・成分に還元するプロセスを踏むからこそ見えてくる、という性質のものもある気がしている。
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