版画って好き。異様に好き。押しあてられて生まれた線や色ってなんでこんなに人間からさらりと離れていくんだろう。吉田博展を見ました。子どもの頃こんな世界にいた気がする。満たしている光や空気と、うねうね渦巻きドキドキさせたり不安にさせたりする光や空気はいつも同時にある。
— 暁方ミセイ (@kumari_kko) 2020年11月5日
私は版画を見る時に、油絵の時よりも、版画であること、版画というメディアそのもの、に意識が行ってるかも知れない。
私は美術について純粋に鑑賞者なので想像だけど、作者的に、油絵では制作のすべての過程で「直(じか)の自分」であれるかも知れない。版画の制作過程は「作業」であって、これは「直の自分」を離れねば不可能なのではないか。
「人間からさらりと離れ」るとは、直接性・同一性への幻想から離れることか。
「自分」と「アウトプット」との間に多くの手順が挟まることは、そのせいでタイムラグが生じることでもある。版画は、現在只今の私をリアルタイムで画面に叩きつけるためのメディアではない。
吉田博を知らなかった。ウェブで幾つか作品を見た。御ツイートの言葉が、版画、というか殊に吉田博作品の性質を言い当てていた。「自分」じゃなくて世界があった。スタティクに満たす光が、予兆を孕んでいた。空気は、波動のための媒質、波動そのものだった。というか私がふるふる波立った。大好き。
御ツイートへのリプで棟方志功の名が挙がってるけど、あれは板に自分を叩きつけてるかも知れない。