(好きな歴史上の人物いる?に応えて)
こういう設問いつも、質問者が「歴史」をどういうものと捉えてるか、疑問。現在にまで繋がってると認識してるか、あるいは歴史書や教科書に載ってる過去と思ってるか。自分自身が歴史に連なってる、歴史を引き受けてる、歴史を作ってる、と感覚できてるか。
とはいえ、評価し価値付けないと歴史とは呼べない。「現在」を活きながらリアルタイムで評価することは出来ないから、「現在只今」を「歴史」に含めることは出来ない。
ローラさんは歴史を作ったと思うし、好きです*1。
ロック・バンドのアルバムがボックス・セットになると、このバンドも「リアルタイムを生きる存在」から「歴史」「ボックス・セットという教科書で学ぶ対象」になったんだな、とは思う。
社会科と体育で悩んできた。
鎌倉時代についての記述が「源頼朝が鎌倉に幕府を開いた」から始まる、ということ。私が学校の歴史の授業を嫌いだった理由はつまりここにある。
権力者個人の権力欲がまずあって、この権力を維持するために社会の仕組みが決まって、その生成~維持~破綻、権力が誰から誰へ移って…を学ぶのが歴史という教科なのなら、そんなもの要らない、と。
「文化史」になら興味を持てた。権力の所在地で時代を呼ぶ「大和時代」「奈良時代」に興味が無くとも、「飛鳥時代」「白鳳時代」「天平時代」には興味があった。
これはつまりどういうことなんだろう?
文化、あるいはもっと狭く「芸術」は、ヒトの生の「目的」たりうる、
世の中の仕組み、それについての学問「社会科」は、ヒトの芸術の営みを支える「手段」にすぎない、
という感覚。
「理科」と「芸術」は「宇宙」と呼応する。
宇宙の仕組みは解るけど、社会の仕組みは解らない。
(「最近『ツイてる!』と思ったことある?」に応えて)
こうして生きてること自体が「ツイてる!」の奇跡的な連続の結果なのでしょうが、実感するのは難しいです。
もし「ツキ」というものが、
「私がゲットしたら他の誰かがゲットできなくなる」
という性質のものなら、
「ラッキー = ハッピー」
とは限らないです。
(04月19日「地図の日」のブログネタに応えて)
距離なり方角なり地形なりを客観的に正しく表現した地図からわれわれが得る世界の認識は、時間で測った地図に照らすと歪んでいます。時間に即した世界の形はむしろ杉浦康平のこの地図に近い筈です。
図の中心から各地点までの長さは、所要時間を表します。例えば、距離でいうと東京→札幌と東京→二風谷はほぼ同じですが、所要時間でいうと大きく違って、杉浦はこれを地図にして見せた感じでしょうか。実際に体験され生きられる世界の形。
あと、もうひとつ思ったんですが、私はネコなので地図を視覚で書きますが、イヌは嗅覚空間に住んでいるので、これを嗅覚に図示する、地図を嗅覚で描くんだろうな、と。