昨日のアメブロのお題「今日は大仏の日」に応えて書きました。
仏像の「大きさ」って、何だろう?
求める功徳の大きさ?
信心の深さ?
出来上がりの大きさが問題なのか? 造る労力が問題なのか?
国家が造る場合は、「大きさ」は、仏に向けるメッセージであるよりも、
民に示すため、民が大仏を見ることで心を取り留めるため、ということがありそう。
あるいは公共事業としての側面もあるのかな?
聖武天皇の時は、疫病、旱魃・飢饉、地震、内乱で、社会不安の時だったらしいから、仏像の大きさ=願いの大きさ=不安の大きさ、だったのかも知れない。
仏像も、芸術一般、文化活動一般も、メッセージとしての「機能」がある。
言葉は何のためにあるか?
どんなに真実を言い当てても、
その言葉を社会の中でどう機能させるか、その言葉を発することで状況がどう動くか、に無頓着な者は、表現者ではない。
ほんと、すべては「タイミング」。
……えっと、なんでこんなおしゃべり始めたんだっけ??
東大寺盧舎那仏像の「大きさ」も、聖武天皇の信仰の真実は措いておいて、国家安寧機能の最大化のためだった、と思いたい、ということだったかな???