ショルティ/シカゴ交響楽団といえば、実家に David Del Tredici "Final Alice" があった。
つべに、8つのパートに分けて、全曲上がってる。
『不思議の国のアリス』原作でいうと、最後の2つの章、第11章「誰がタルトを盗んだか?」第12章「アリスの証言」にあたる箇所。
文学作品を題材に作曲する、というとき、いくつかの行き方がある。
①音楽そのものが原作の世界を示唆する=言葉を伴わない
②詩にメロディを付ける
③朗読に音楽を併置する
詩や戯曲は、メロディと一体になって「歌」になる。言葉と音楽とがひとつの世界を現出すべく協働する。というか詩において言葉と音楽とはもともと一如である。
小説にメロを付けて歌うことは不可能である。朗読と音楽の併置にならざるを得ない。
この曲のヴォーカル・パートは「朗読する」箇所と「歌う」箇所とがある。
トレディチの作曲の指向性とか技量とか以前に、「散文作品『不思議の国のアリス』の原文ほぼそのまま、地の文含めて朗読し、音楽を併置する」というアイデアの出発点で既に、この作品は失敗してる。
散文の属する時間と、音楽の属する時間とは、別の流れ方をする。「右脳と左脳」説を持ち出したくはないが、たしかに、音楽を注意深く聴こうとすれば、散文を、その意味内容を理解すべく聴く作業は、邪魔でしかない。
地の文というのは、世界そのものの現出ではなく、世界の説明だ。
'Not yet, not yet!' the Rabbit hastily interrupted.
の一文は、戯曲なら、hastily はト書きされ、実演の場でこの語が読まれることはないし、話者が the Rabbit であることを断る必要がないのだが、この曲ではそれが全部いちいち読まれる。
戯曲を体験することは、世界そのものを体験することなので、散文の「説明」を脳内で世界に変換する体験とは別次元で、むしろ同じく世界の現出である音楽を体験することのほうに近い。
この曲における散文の「朗読」は、膨大な語数を早口で捲し立てられて物理的にうるさいし、これに付き合わされるあいだは、同時に音楽を聴くことが出来ない。
いっぽう、白ウサギが読み上げる「手紙」など、詩の形で書かれた箇所は「歌われる」。
メロ自体は通俗的だけど、これを主題にして変奏処理されるさまは面白い。
トレディチは調性を指向するけど、技法の幅は広い。
オケが終始躁状態で気忙しいのは、そもそも原作第11、12章が気忙しい場面なので、これを題材に取る以上、仕方がないのかも知れない。
結局、↑に貼った部分の後半、「夢オチ」後のくだりのオケに、私はいちばん魅せられる。
私はトレディチの「アリス」関連の曲はこの "Final Alice" しか聴いてない。他の作品では曲調が違うのかも知れない。