弁天様の意思と価値が世界を満たしますように

これが初詣になるわけか。意図してなかったけど1月中に行けて良かった。

往復2時間、10,000歩は超えたかな?

弁天様へのお願い、若い頃は「御心のままに」としか言えなかった。

ある時期から「道をお示し下さい」になった。

今日は「弁天様の意思と価値が世界を満たしますように」。

私自身はもう作曲をしない。

たもとの、花見川に掛かる大きな弁天橋の朱色の塗装が、道のカーブとともに突然眼前に現れると壮観だったのが、今日3年振りに見ると黄土色に褪色していた。つまり一昨年と去年はお参りしませんでした。済みません。

 

昨日、ほぼ同じ距離を歩いて、花見川まで出て、数年振りにポンプ場の円柱形の塔(貯水塔?)を見た。

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どこまで歩けるか様子見しつつ距離を伸ばし、これなら弁天様までも行けるな、と思ったのだった。

上野耕路のアルバムに『レゼルヴォワール』というタイトルのがある。貼らないけど。

 

途上、視界の広く開ける場所がある。ふだん部屋に籠りきりだと、大きな空間に戸惑う。

どう捉えたものか。

たしかにそこに大きな空間があるのだけど、ふだんの空間把握のスケールと折り合いが付かなくて、現実の空間というよりも自分の認識の中の出来事に収めそうになる。

手塚治虫の『火の鳥』だったか?深い穴の底で生まれてそこで育った若者が、穴の壁を攀じ登り、初めて外の世界を見た時のセリフ「世界はこんなに広いのか」を読んだとき、穴の底の世界しか見たことのなかった者が、初めて眼前にする空間についてこういうセリフを発するためには、時間が必要だし、それを「広さ」と認識するためには空間把握の更新が必要だろう、と思った。

昨日それを思い出した。

広さと狭さということでいうと、あと Genesis "The Lamb Lies Down On Broadway" の魅力のひとつは「スタジオ感」だと思ってる。大きな世界を遍歴するんだけど、その全てが実はスタジオの中だけで成り立ってる、という質感。