ここは天国なんじゃないかってみんなが言うくらい、大自然に囲まれた美しい家。目の前は海、後ろは森。庭という概念では収まりきらない広さ。 pic.twitter.com/jdwTIONSVf
— くま (@kumacorenbl) August 5, 2018
フォロー申し上げているホルン奏者の方の御ツイート。
また、別の方のリプへのリプで、
「反響する場所がほとんどないので音響としてはいまいちなんですが、思いっきり練習して気持ちよかったです」
と仰っていた。
知り合いの テナーサックス奏者は、コンクリートの壁に向かって練習してた。はね返りがないと、自分の音を確認できない。
ホルンでも似た事情があるだろうか。
楽器が、自分で自分の音を聴くのには最適の構造になってない、ということは、楽器の目的、広く音楽の在りよう、を考えるのに示唆的。
ホルンは信号だった。つまり伝える相手がいる。そして、広く、遠くまで、音を伝える目的に沿って、構造が決まる。
私はいつも、音楽はパーソナルなもの、と表明してる。万が一私の音楽のどこか一部分にわずかな反応を下さる方があれば、だからこそ、ものすごく幸いなことだ。
でもいっぽうで、「シェアされる」ことが音楽の本質のひとつなのは間違いない。「パーソナルな音楽」は、音楽の在り方総体の中で、たしかに特殊で歪だ。
くだんのテナー奏者はまた、渓谷の頂で吹いた時、あたりが自分の音の反射で満ちて、世界を征服した気になった、と。
自分が世界の中にいる、世界と繋がってる、世界と一体である、という感覚は、音楽家がふだん実感する機会は少ない。
音を発する場が「世界」「宇宙」であるという感覚。「スタジオ」「コンサートホール」ではなく。あと「人間社会」との繋がりという意味でも。
冒頭の御ツイートみたいな環境で、思いきり世界と一体になる。反響がないから個人練習には向かないけど。