雲と寒天とあしたばとラーメン(と宇宙)

雲が流れてゆく。

雲は具体的には水滴または氷晶だが、雲が流れるとは、これら個々の雲粒が動いてゆくというよりは、「雲の出来る条件」が動いてゆくということだ、とイメージする。

ある気温・湿度・気圧の「状態」が、流れてゆく、その先々で雲粒が作られては消える。

「私」という現象も、こういうイメージ。「私」において「持続」してるものは何なのか。

 

 

アゲハチョウの幼虫がミカンやカラタチの葉をもっぱら食べるように、私は寒天デザートのミカン味やオレンジ味をもっぱら食べる。

おとうふの容器みたいのに入ってて250㌘、という同コンセプトの商品が、いくつかのメーカーから出てて、差異を楽しむ。

スプーンを入れた深さよりも先走って、決まった向きに沿って、なめらかな面で剥がれるように割れる。

いっぱんに「食べくらべ」では、濃厚なもののほうを優れてると判定するが、こと寒天デザートについては、さらっと水っぽいものにもポエジーがある。

水が、儚いアガロースの支えを与えられて直方体に立ってる、そもそも寒天デザートとはそういう存在なので。

 

 

広辞苑(第四版)で、「あしたば」は、「あした」を親項目としてそこに追い込まれている。これについて私は2つの点で不満だ。

①動植物の種の名前は、この辞典の「凡例」>「見出し語」>「親項目と追込項目」にいう《一語意識のつよい語》に該当する、というのが私の感覚だ。つまり独立項目とすべき。

「あした・ば」はの語源の分析であって、種の名前としては飽くまで「あしたば」だ。というか「アシタバ」だ。

動植物の種の名前は、カタカナで書かれ、「国語」的に語源・由来を背負いつつも、「理科」的に無機質であって欲しい。

②「あした」の下に追い込まれた「あしたば」に辿り着くには、この語が「あした」と「ば」との間で区切られる、ということを知っていなければならない。

ところが、「あした・ば」であること、漢字で「明日葉」と書かれることは、この辞典で調べるまで知ることが出来ないのである。

読者は調べたい語についてよく知らないから調べるのであって、編纂者は、読者の知識がゼロであるという前提で、それでもその語にアクセスできるシステムを作らねばならない。

じじつ、私はこの語を「あし・たば」だと思っていたぞ。

 

 

実際に即して言えば、ラーメンの麺とスープとを峻別することは出来ない。

「麺にはスープが沁みてるし、スープには麺が溶け出している。どこまでが麺でどこまでがスープか線引き出来ない」という言い方はまだ、麺とスープとを分けて考える前提によっている。

両者を分けるためには、工程を遡ればよい。たしかに材料は麺とスープだった。

ラーメンにおいては、時間が下るにつれてエントロピーが増大する、ということだ。

逆の世界もある。 

宇宙は、「天体」=比重の大きな箇所と、「宇宙空間」=比重のものすごく小さな箇所とに、くっきりと分かれている。

そこに働いている力が「重力」であるからだ。宇宙の初期、いったん宇宙の密度にムラが生じると、それは重力のムラでもあって、密になった箇所は周りから塵を引き寄せてさらに密になり、さらに重力が大きくなる。不可逆的に、今の宇宙の状態に至る。

時間が下るほどエントロピーが小さくなる方向に働く力。