ピコ秒の音楽、劫の音楽

(2016年1月15日、記)

 

ろうちさんに

 

 

 

音楽ってヒトの生理に根差すなあとつくづく思う。

「退屈の対義語」、これが音楽の定義にもなりそうだけど、ある時間の経過を「退屈」と感じる/感じないのはヒトの生理。

音楽「理論」が如何にヒトの「聴き方・感じ方」そのものであるか。

 

自ずと、音楽に採用できる、BPMとか、ピッチとかには、上限下限がある。

ヒトの耳にはピッチの可聴範囲があるし、パルスの周期があまりに速くても遅くても、ヒトはそれをビートとして勘定できない、認識できない。

 

それでも限界をいったん取っ払って音楽を考えてみる。

ピコ秒単位でも、劫単位でも、音楽を考えることは可能だ。

 

 

本題

 

にしても「劫の音楽」の聴き手は誰だろう?

ピグでのお知り合いのろうちさんが「10代の時に西洋音楽の歴史を独学で不完全に勉強してたノートの切れ端」とおっしゃる画像をツイートなさってるのを拝見した。

挙げてらしたのは、ルネサンスバロック期の音楽史、作曲技法の変遷を明快にまとめてあるページで、学ばせて頂いた。

拝見しつつ思ったこと。

たとえば「モテト」について、もともと典礼上の要請から生まれ、典礼の必然に沿う範囲で行われた、ドゥプルム声部への新しい歌詞の付加が、のちにそこだけ独立して発展して世俗モテトという一時代の様式として席巻するさま。

それ自体が、ある時代に生まれた「主題」の数世紀かけた「展開」、音楽の「発展、歴史」自体が幾世代かを費やして演奏される巨大な音楽「作品」、と思えたのだ。

(第1変換が「ハッテン」なのヤメテ)

この場合この作品の聴き手は、ヒト個人ではなく、世代を受け継ぐヒトビト、ということになる。

個人が聴く数秒~数時間の作品、ある民族が聴く民族史、全人類が全歴史を費やして聴く劫の音楽。

 

 

おまけ

 

個人が、個人の限界の範囲で、劫の音楽を作曲する。

パルスは、秒単位で測れば音高だし、分単位で測ればビート。

音高とビートとを無碍に往還すれば、それが象徴的に劫の音楽を示すことになる。

 

敷衍して、「和音」と「音色」とをともに「音高」に還元できる問題として統一的に扱うこと、など。