ディレンマ②

フレーズの符割をどんなに入り組ませても、それはイーヴンのビートを基準にしての入り組みであって、どこがどう入り組んでるのか判るように提示するためには、基準ビートを同時に鳴らさねばならない。

単調なビートが厭で、そこから逃れようとして、符割を複雑にすればするほど、厳密な符割が自由符割と見分けがつかなくなって、単調なビートを同時に鳴らすことを必要とするようになる、ということを指して「ディレンマ」といってみた。

 

この曲の前半(0'59" 目まで)は、4拍子で、16分音符単位(3連符もあり)で符割を作り込んであって、シークェンス・データを見れば譜面に起こすことも可能なやつなのだけど、基準ビートを受け持つパートが無いので、自由符割に(私には)聴こえてしまう:

後半(0'59" 目から)はドラムとベースが「パターン」で出来てるのでまだ拍を取れる、といいつつ 1'22"~ 1'38" でライド・シンバルが途切れると途端に(私は)落ちてしまう。各16分音符が16ビートのどこに当て嵌まるのか、見えなくなって、符割の解析が出来なくなってグルーヴを失う。

これはテンポについての過去記事で「テンポは、打込み作業においても、どこまでも身体に属するもので、したがってパーソナルなもの」といったやつで、つまりこの曲の拍を(私が)取れないのは、速いから。♩=108 くらいまで落とせば、取れる。

前半の音形は、後半の 1'38"~ 1'57" で再現する。この時はドラム・パターン(ライド・シンバル付き)の上に乗ってるので、取れる。いや、取れない。

ディレンマ

この曲は本来歌物で、0'16"~ がヴァースなんだけど、私が気になってるのは、なぜここでパーカス・パートが「身も蓋もない8分音符での」刻みをやってるのか、ということ。

たしかに音色的な面白みはある*1。でもそれも、刻みがイーヴンで単調であることの音色による粉飾、と聴こえてしまう。

ここをこうしたことに、もし何か積極的な判断があるとしたら、それは、歌メロの符割が惹き起こす問題を解決するため、なのではないか?

採譜すると、こうだろうか:

2小節目から3小節目にかけてのタイ、3小節目1拍目の3連符。

もしこのメロをアカペラで示したら、聴き手的には、この符割が見えない。

だからパーカス・パートで基本ビートを明示する必要があった、のではないか。

 

一般に、符割をどんなに工夫して入り組ませても、それはイーヴンのビートを基準にしての入り組みであって、どこをどう工夫してるのか判るように提示するためには、基本ビートを同時に鳴らさねばならない。

作曲者的には、曲開始のカウントとか、基本ビートを通奏するパートとかの、補助線というか座標軸というか、による注釈無しに、フレーズの符割そのものでもって自明であらしめたいし、それが実現出来てないのならそれは作曲の失敗だ、と思う。

その符割、その音楽は、この世に存在するといえるのか?

作曲者の頭の中には明確に存在する、符割。譜面に書き表すことも出来る。でも音楽は実際に音として鳴らされて初めて音楽なのだ。ところが実際に鳴らされると、それは基本ビートの注釈を外されることだから、厳密な符割が自由符割になってしまう。

つまりは聴き手と共有出来ない。

 

武満徹《夢の時》(日本ショット)、p. 20 のホルンのパート。ここの拍子は、6/♪、9/♪。

好きな箇所なんだけど、 CD で音でだけ聴いてると、タイの頻出によるシンコペイションが見えない。どこが小節線なのかも、聴いて判ることじゃない。

譜面を見るまでは判らない。演奏会で指揮者の身振りを見ながら聴けば、あるいは判るかも知れない。

鳴ってるそのものだけが音楽である。譜面や、指揮者の身振りは、音楽そのものへの「注釈」だ。聴き手にとってはそうだし、ここでいう聴き手とは、作曲者の頭の中以外の全世界のことだ。注釈無しには判らない作曲って、作曲として成功してるのか?

*1:4種類の音色が順繰りに鳴る。次のような工夫がみられる。

・中央にアタック音①、②、右に持続音①、左に持続音②。MIDI 出力チャンネルの設定を、アタック音①と持続音①、アタック音②と持続音②を同じにして、それぞれアタック音が鳴るのと同時に持続音が鳴り止む=持続のゲイトタイムが正確に100%。

・アタック音②だけリヴァーブが深い。この曲の奥行きを演出してるのは、この音。

テンポ パーソナル 責任

2年前の今日の記事。

「(打込みのエディットの)作業してる時は感覚が鋭くなってる時だから落ち着いてみると自分の設定したテンポに自分がついて行けなく」

「テンポは、打込み作業においても、どこまでも身体に属するもので、したがってパーソナルなもの」「テンポについて行けなくなるとは具体的には、リズム=符割を解析できなくなって、グルーヴを失うこと」

 

ここで「パーソナル」の語を使ってる理由を、少し丁寧に書く必要を感じた。というか今自分で読み直して咄嗟に意味が取れなかった。

つまり「自分で取れないテンポは採用しない」ということです。テンポは速ければ速いほどかっこいいけど、これを理由に BPM「150」にはしない。

記事中「132」とか書いてるけど、他人様がお聴きになって「とれえわ!」なテンポの筈。でもそのトロさが私のテンポ、私自身、私の身体なのだから、引き受ける。自分の音楽に自分で責任を持つということです。同じ段落で「そのレゾリューションを細かく保つことを心掛けてる」といってる、そのうえで。

 

もっと正確にいうと、「ここまでは私の責任、ここから先は私の手に負えない領域」という線引きを明確にする、ということだろうか。まあものすごく当たり前なことだけど。

もちろんここでいう責任というのは「作曲」についてのもので、「演奏」については私は自分で責任を引き受けられないからこそ打込みにお任せしてる。「自分の作曲を自分の頭と感覚が理解してる」という意味での責任です。

で、これはもちろんテンポに限らず、打込み作業一般について同じ態度でいる。

和声についても、例えば複数の声部を機械的に重ねて和声を偶然に得る、ということが打込みではやれてしまう。それは面白がってよいし、可能性はそこにこそあったりする。でも偶然に生じたものごとのうちの「どこが」面白いのかを私自身が見極め選び取り、「なぜ、どのように」面白いのかを私自身が納得したものだけを採用する、ということが必要だし、その手順は「作曲」と呼んでよいのだと思う。

後半は考えながら書いたので未整理です。