Peter Gabriel 'Waiting For The Big One' での女声の扱い

これはいまだおたずね中だけど、女声をワンポイントで使う使い方が美しい例をひとつ思い出した。

Peter Gabriel 'Waiting For The Big One'。6'17" 目~。

とくにオクターヴ・ユニゾンになる箇所に気が遠くなる。

 

このあと次曲 'Down The Dolce Vita' にメドレーで繋がる繋がり方も美しい。この 'Down The Dolce Vita' は、ロック・バンドとオーケストラの共演(別録りだろうけど)として最も成功した例ではないか。双方のそれぞれとしてのアイデンティティが損なわれてないというか、各々の語法が枉げられてない。「対立」してないのに、「折り合いを付けてる」あるいは「どっちかがどっちかに搾取されてる」感が無いのが、奇跡。

LSO だし。

 

さらにメドレーでラスト・ナンバー 'Here Comes The Flood' に流れ込む。メドレーの両曲をクロス・フェイドでブリッジする、リコーダー・アンサンブルによるみたいな音響と、そこから立ち上がる 'Here Comes The Flood' イントロのアレンジは、私の大切な音風景のひとつ。

'Here Comes The Flood' 自体は、曲調としては嫌いだけど、和声、念入りで巧みなヴォイシングにはどうしても泣いてしまう。

'Drink up, dreamers, you're running dry.' がファルセットなのも、不意打ちで、泣いてしまう。最後に出て来る時だけファルセットじゃなくて、ソロ(斉唱じゃなく*1)なのも、泣いてしまう。

 

'Here Comes The Flood' も 'Home Sweet Home' も 'Biko' も嫌いなので 'Kiss Of Life' 終わりの "Security" は偉い。

*1:4回出て来るうちの3回のファルセットが、斉唱なのかソロなのか、じつは私には判別できない。リヴァーブが深いのでソロだけど斉唱みたいな響きになってる、ようにも聴こえる。

Beardfish

Beardfish はリアタイで "Sleeping In Traffic: Part Two"(2008年)だけ聴いた。作曲はほぼキーボーディストでリード・ヴォーカリストの Rikard Sjöblom による。

6分~8分ほどの数曲は、poetic な造形が畳み掛けられて密度があるうえに、羽目を外し気味なユーモアもある。

いっぽう、表題曲 'Sleeping In Traffic' は、35分あって、アルバム74分の殆ど半分を占めるのだけど、「造形として工夫のないいくつかのリフ」の「工夫のない繰り返しと工夫のない羅列」が35分間を「ただ埋めている」。小曲で見せる審美眼が、なぜこの prosy さを許容出来るのか、謎だ。

退屈の種類としては、England 'The Imperial Hotel' の3分目以降か、ラヴェルシェエラザード:お伽話への序曲」に近い。

その 'Sleeping In Traffic' も、20'58"~ では私の好きな羽目外しが出て来る。より正確にいうと、19'52"~ の爽やかなパートが、20'58"~ の羽目外しのパートを経て、21'41"~ に再現する際に、両者のヴォーカル・スタイルが混ざってしまう、爽やかパートが羽目外しに侵食され汚染されてるところが、わたし的聴きどころ。

でもそのすぐあと、「'70年代のディスコ・クラブ」の音楽、Bee Gees 'Stayin' Alive' が記号的に引用されるのは、解せない。ディスコ・ミュージックがいけないのではなくて、その引用のしかたが記号的なのがいけない。

33'02"~ 34'48" の、白玉コードだけで出来た耐え難いパートを耐えれば、この曲中ではいちばん気の利いた造形のエンディングにありつける。

この長さにする必然が、私には解らない。35分という分数としてはプログレで最長ではないだろうけど、最冗長ではあるのではないか。

 

Sjöblom のヴォーカルは、声質的にも、キャラ的にも、私には強迫的だ。でもそれをいうと、(私のいちばん好きなバンドである Gentle Giant の)Derek Shulman だって、理想的ではない。

 

ちなみに、England 'The Imperial Hotel' はなぜ退屈なのか。

各部分の構成が「4拍×4小節×4楽節」で、間が持たないから。

なぜそうなるのか。

基本この音楽は「歌の伴奏」であって、詞には展開がある(私は英語判らないけど、たぶん)けど、曲が自律的に展開しないから。

掴みでは「おっ!」となる。でも3分目くらいで気づいてしまう。繰り返しや循環コードの多用、構成の硬直からくる退屈を、ときどき曲調やパターンに変化をつけることで紛らす、という流儀なのだと。

就中、終盤、7拍子を、まるで伝家の宝刀みたいに繰り出して、これでここまでのすべての退屈をチャラに出来るという料簡ででもあるかのようなのが、腹立たしい。

ちなみにこれは24分ある。

 

'Stayin' Alive' の引用としては、Split Enz 'The Coral Sea'("True Colours" 所収。ラスト・ナンバー!)が目覚ましい。ディスコ・ブームに乗ったレコード会社の無茶振りの所産なのか、自主的な「ディスコ批評」なのか、事情は判らないが、'Stayin' Alive' を痛烈に揶揄しつつ、クラウトロックに連なるような音響。

良い聴き手

今朝グレゴール・ザムザが何か気がかりな夢から目を覚ますと、家の電気が止まってた。

まず停電を疑ったが、お隣りに伺って、電気が止まってるのがうちだけなのが判明した。

ブレイカは落ちてない。

電力会社に問い合わせると、11月の料金が未納で、これが原因だった。

 

問題は、私自身の意識が、全くあてにならないということ。

11月分の払い込み用紙を見落としたこと。その後未払いのお知らせなり催告状なり督促状なり送電停止の予告なり解約のお知らせなりが、何段階かで、来た筈なのに、悉く見落としたこと。

送られて来なかったんじゃ?と思いたくなるけど、見落としには自信がある。私の見落としだと判断する根拠がある。前科がある。以前、部屋の片づけの際、数か月前に受け取った何かの公的な封書が出て来たことがある。しかも開封済みだった。未開封のままうっちゃってたのではなく、私自身が確実に一度は目を通し、かつ完全に忘れ去ってた。

 

そもそもいっぱんに意識が意識自身をチェックすることは原理的に不可能だし、私自身についていうと、昔はもっとしっかりしてたのに、と思いもするけど、じつは昔からぼんやりしてて、自分がぼんやりしてることに自分で気づいてなかったのかも知れない。そのくらいぼんやりしてたのかも知れない。

 

なんしろ、2年前の3月から4月にかけて入院があって、それ以来、輪をかけて自分の意識に自信がない。

ICU から出て、頭がぼんやりして現実感が無くて、判断ミスを犯しがちなのを、当初は眠剤の効き目が残ってるから、と思ったけど、結局それが回復しないまま退院。もう元の私には戻れないのか、と危惧した。その後10日ほどで、たぶんこれが入院前と同じ状態だろう、と思える程度に回復した。

ぼんやりの状態に順応した「慣れ」の要素もあるかもだし、どの程度のクリアさをもって十分なクリアさというのか、もう判断基準自体がぐらついてる。

 

電力会社との電話でのやり取りや、ファミリーマートのマルチコピー機での支払の操作は、非日常で、楽しかった。また止めちゃおうかな。

ダメです。ご多忙な電力会社の方の余計なお手間を生じてしまったこと、申し訳ありません。

 

 

入院前、最後の記事投稿は何だっけ?

これだ。

私は sakana の良い聴き手ではない。

1st. アルバム、自主制作の "Les Blanchisseuses"(『洗濯女』、1988年)で知って、棘の取れない、ガチャガチャとしたまま放り出された音楽を、最高にクリエイティヴだと思った。「音楽の生まれる現場」のワクワク。

これが私の sakana 像になってしまったために、その後聴いたものはどれも、(sakana のリリース順としてもその後のものということになるわけだけど、)整い、洗練されてるぶん、私が切実に大切に思う要素が捨象されてる、と感じた。

これはアーティスト側からしたら心外なことだ。本当にやりたいことが達成されてるほうの作品を評価しろよ、という。

 

いっぱんに、1st. アルバムから、あるいはメジャー・デビュー前から知ってるファンが、自分こそ「にわか」とは違ってアーティストを本当に理解してる、と思うということがあるとして、これは新規ファンにとってだけでなく、当のアーティストにとっても、筋違いで迷惑な場合が多いのだと思う。

 

追記

上がってたのか!