Genesis "The Lamb Lies Down On Broadway" は1974年11月18日にリリースされました。
過去記事を、加筆修正の上、3つ。
これは飽くまで私個人の修辞感覚に照らして、なんだけど。
「おまえのものはおれのもの、おれのものもおれのもの」
は、ジャイアニズムを端的に言い表す名フレーズであるに違いない*1。意味内容においては。
だが私は引っ掛かる。後半の「おれのものも」の「も」が「は」ではなく「も」であることに。ここは
「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」
とするのが私の感覚だ。
ここは「は」と言っておけば「も」を含意する。
「言わずに済ませられることは言わない」は(私の)修辞の美学の鉄則のひとつである。「も」を用いなくても「も」の意味であることが判る場合に「も」と言ってしまうのは、「気持ちの前のめり」乃ち「意味内容自身に語らせるという鉄則を忘れること」である。
つまりこの「も」は端的にトートロジーである。だから忌避される。
このフレーズがもし Shakespeare "Measure For Measure" の
What's mine is yours, and what is yours is mine.
を元ネタとするのなら、
「おまえのものはおれのもの、おれのものはおまえのもの」*2
を踏まえ、この形式を能う限り踏襲することが、パロディ成立に必須の手続きである。これもここで「も」を忌避する理由である。
いっぱんに、私は日本語が「も」と言い過ぎると感じているし、私個人の言語生活においてなるべく「も」と言わないことを心懸けている。
日本語は、わざわざ副詞 also や too を付け加えずに助詞「は」を「も」に置き換える手間だけで言えてしまうから、うっかり言ってしまうんだと思う。
関連記事(おもに NHK dis ですが):
日の出前。
東の空の光に嬉しくなる。
振り向いて西の方、その光を受けて、暗い空をバックにオレンジ色に浮かび上がるビル群も、この時間帯ならではのヴィジュアル。
ただ、東の光には「ほっとする」が、西の光景には「ぎょっとする」。終末感がある。街が静まりかえってるので、街の滅びに立ち会うかのよう。
夜が明けて始まったのは、終わりの世界。
午後、予約時刻まで時間が空いてしまったので、病院の周りを歩いて一周することにした。
以前、入院病棟の4階から見下ろして、小ぢんまりとしたデザインの平屋建て住宅が数軒連なる一角が、遠く垣間見えた。現地に行ってみたいと思ってた。機会が訪れた。
その住宅たちのドアは、やけにささやかで、訪問者を迎える玄関という造りじゃない。そこが、病棟からの遠目に、一般的な住宅のイメージと違って、実用の文脈よりはファンタジーに属する、ピグワールドにでも出て来そうな可愛い佇まいに映って、気になったのだった。
病院脇の道を行く。右手に病院を見つつ。左手に、道に面して、件の住宅たちが見えてくる。
あの時風景の一部だった場所に、今立ってる。
これの1分56秒目です。
遠目の限られたアングルでは地形が判らなかったが、現地に来てみると、病院は台地の上、その脇の道は台地の縁で、これに面する住宅たちは、病院側から見ると「小ぢんまりした平屋建て」に見えたが、じつは断崖に張り付く3階建てくらいのお宅の最上階なのだった。もしかしたら最下階で向こう側にドアが開いていて、そちらが堂々たる玄関なのかも知れない。今日はそっちにまで回ってみなかったけど。
病院の周りを一周、のつもりが、隣接する2つの大学のキャンパスをも含む巨大なブロックの周りを一周する羽目に(これに切り込むショートカットが存在しなかった)。所要時間35分。