#ベースの日 2020

ポピュラー音楽の分野で「リズム隊」という用語が罷り通っていることは、リズムにとっても、ベースにとっても、不幸だ。

 

「リズム」という語は誤解を生みやすい。「ミーター(拍子)」と混同されたり、「リズムパターン」のことだと思われたり。

私は、誤解を避けるために、「リズム」の代わりに「符割」といったりする。

「リズム隊」が想定する「リズム」は、「ドラムとベースが一体になって生むグルーヴ」を意識して「ミーター」や「リズムパターン」寄りになってる印象がある。

 

なにより、この「ドラムとベースが一体になって」土台を作ってその上に音楽を建てる、というのが、囚われた発想だ。

ベースはウワモノだし、それは Ray Shulman、Chihiro S. の昔からそうだし、コンポジション至上だと必然そうなる。

作曲ありきで、バンドの出音もその必然に沿って決まるようなバンドの場合、ベースの役割も、他のパートと対等の「声部」を受け持つことが要求される。

0'16" 目から。

 

この記事もう3年前なのか…

Pink Floyd 'Breathe (In The Air)'

私のプログレ入門はピンク・フロイド『狂気』だった。

 

'Breathe' の Em→A のコード進行に感動した理由のひとつを思い出した。Em の「g、h」と A の「a、cis」がともに長3度で、ボトルネック奏法で繋げられる。この、演奏上の都合から発想されたとも、純粋にコンポジションからの発想とも取れる、というか両者の結び付きを、奇跡的に美しいと思ったのだった。

 

 うーん、ちょっと違うな。

「長3度がスライドしてゆく」というのは、ギターの奏法としてというより、音の「自然な」「出来事・振舞い」としてあって、それは「かけら」であってシステムとしての和声以前の状態だけど、それだけで美しい。

システムに先んじてあり、システムの根源であるのに、システムに依拠するうち根源を見失う。

システムありきでそこに部分を当て嵌めてゆくのは「作り事」であって「出来事」ではない。そうではなく逆に、「出来事」への感動から始めて、その場その都度、和声を編んでゆく、そのせいでホ短調の6度の c が♯して cis になってる、という方向を見て取って、クリエイティヴと感じたのだった。

 

 

『狂気』との出会いについて、以前こう書いていた:

〈「こんなに好き勝手やっていいんだ!」というショック。

この「好き勝手」ということが、そのまま私にとってのプログレの定義、と言い切って良い。

とんがったままごちゃついて、多様な可能性に開かれて、聴き手の耳を自由にし活性にする。この「ありよう」が、作品としての「完成度」に優先する。

完成度を測ることはものさしを前提とする。プログレは逆にものさしを疑うことだ。

そしてこの私のプログレ観を決定したのが、この『狂気』だった。

例えば、最近やけに好評の BAROCK PROJECT が、私には「約束づけられた問いの立て方への約束づけられた回答のし方」にしか聴こえなくて、全くワクワクしないのは、私のプログレ観がつまりそういうことだから。〉

 

昔の私賢い!ってなったのは、「プログレはものさしを疑うこと」の「こと」。

そうなんだよ! プログレは「もの」じゃなくて「こと」なんだよ!

 

 

詞内容と曲調のズレで感動する、という最初の経験は、'Brain Damage' だった。

メモ(星野写真)

ソフトフォーカスフィルターを使って星野写真を撮るとはつまり、星の「明るさ」を星像の「大きさ」で表現することなので、本来「点」である星の表現として引っ掛かりを覚えもする。でもこのほうが肉眼での印象に近い気もする。

「星座写真」としてなら、輝星が強調されるほうが星の配列を辿りやすいし。

 

そもそもは、このフィルター処理はノスタルジーなのかも知れない。銀塩フィルムでの星像に近づける、という。

あるいは、そこに「味」を見出したり。理科であるよりは美術。

 

肉眼で見えない暗い星まで捉えて夥しい星数を敷き詰めつつ、星座を構成する輝星をその中に埋没させない。