小さな羊飼い

むかし武満のドキュメンタリーでワンシーン、印象に残った。

仕事場で、難しい顔でピアノに向かって作曲する武満。

響きを探り当てようと鍵盤をまさぐる指が、おもむろにドビュッシー子供の領分』第5曲「小さな羊飼い」の一節を弾きだす。

笑ってしまった。

なぜ笑ったか。武満の曲調や作曲態度のシリアスさと、可愛い「小さな羊飼い」とのギャップ、ということもあるが、もうひとつの別のことを思い出したからだ。

 

「小さな羊飼い」第19~20小節。

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(画像を継ぎ接ぎしたのでスラーの書かれ方が不自然です)

篠山紀信のヴィデオディスク作品「シルクロード 光と風と音」に武満が付けた音楽を抜粋・編集したアナログ盤(田中賢作曲含む)が実家にあった。その中の1曲中に、この2小節の引用と聴こえる箇所がある。

このメロディは、メシアンの「移調の限られた旋法」第2に沿っている。ドビュッシーメシアン~武満の系譜を集約的に見る思いだ。

件のシーンで、これを思い出したのだった。響きをたずねるとき、立ち返る拠り処というのがあるのだ、と思った。

 

ツイッターでフォロー申し上げ、ひそかに思いを寄せる レイ 氏の御ツイートに、返信差し上げたことがある。

ドビュッシーは「耳」だった。音組織について最も敏感な「耳」。

だが「分析」を「神秘を冷然と殺すもの」として好まなかった。

 

私「ビートルズの 'Getting Better' いいですね! XTC みたいで」

K氏(元・早稲田ビートルマニア会長)「逆だ」

というやりとりなら昔あった。 

 

ところで 'The Little Shephard' を「小さな羊飼い」と訳すのは、正しいだろうか?

「羊飼いの少年」ではないか?

 

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いろいろ記憶があやしい

私の記憶だと、ストラヴィンスキーラヴェルは一緒にシェーンベルク「ピエロ・リュネール」(1911)の譜面を目にし、両者とも「いかん!」となり、ストラヴィンスキーは「3つの日本の抒情詩」(1913)を、ラヴェルは「ステファヌ・マラルメの3つの詩」(1913)を書いたのだった(いま改めてググると、譜面を見たのは「音楽評論家カルヴォコレッシ邸で」らしい)。

 

最近読んだ別の記事によると、ストラヴィンスキーはベルリンで実際に「ピエロ・リュネール」を聴いている。「いかん!」となって「3つの日本の抒情詩」を書いた。

ラヴェルストラヴィンスキーから「ピエロ・リュネール」の話を聞き、また「3つの日本の抒情詩」を弾いて聴かされ、「いかん!」となって「ステファヌ・マラルメの3つの詩」を書いた。

 

Schoenberg 'Moon-Drunk' & 'Night' from "Pierrot Lunaire" Op. 21

Marianne Pousseur, Pierre Boulez / Ensemble InterContemporain

 

Stravinsky ”Three Japanese Lyrics"

1. Akahito ; Акахито ; 赤人

2. Mazatsumi ; Мазацуми ; 当純 

3. Tsaraïuki ; Tcypайуки ; 貫之

Susan Nairicki, Robert Craft / Twentieth Century Classic Ensemble

 

Ravel "Trois Poèmes de Stéphane Mallarmé" 第1曲 'Soupir'

Jill Gomez, Pierre Boulez / BBC Symphony Orchestra

(追記 2018年04月02日 第2曲 'Placet futile' を貼ってましたが、ストラヴィンスキーに触発されてまず書き、彼に捧げられたのは第1曲なので、貼り換えました。第2曲はフローラン・シュミットに、第3曲はサティに捧げられています)

 

アルゼンチンのバンド Factor Burzaco のこの曲(2014)は「ピエロ・リュネール」を下敷きにしてる。

 

関連記事:

S / N 比

若い頃は精神生活に妥協が無かった。

文章でも、「書く」ことについて十全かつ厳密だっただけでなく、「書かない」ことについて徹底してた。

接続詞を使わないことにこだわった。論旨を明確に示し得ていれば、接続詞を置かなくてもその前後の関係が、順接なのか逆接なのか、因果なのか並列なのか、読めば判る、と。

それは相手の読解力を信用することでもあって、接続詞の補助が必要になるのは、論旨の明確さに問題がある、誤魔化しや辻褄合わせが行われている場合であり、同時に、読者を、補助や手加減を必要とする、読解力不全の者と見做す「無礼」だ、と、頑なで、しばしば歪な、こだわり方をしてた。

共有してると見込まれる前提事項を省略するのは当然だが、若い頃は、その刈込みの程度が最大で、何も伝わってなかったことがあとで判明する、のが慣例だった。テクニカル・タームを注釈なしに使う、とか。

 

読者といってもプライヴェートの友人です。引越しがあるたびに、前の土地の友人との文通が始まる。「あったこと」ではなく「考えたこと」を、随筆か、アフォリズムの連続にして、送りつける。文章力を「たまには普通に近況報告をしても、バチは当たらないと思います」と褒められたが、それは、友人への私信の場合でも、必ず下書きをし、推敲し、完璧に文章を組み立ててから「清書」してたからなのだった。

文章の S / N 比が、今は、若い頃よりも上がってる自覚があるが、注釈不足ゆえの意味の通りにくさでご迷惑をお掛けしてることもあるらしいのを、時々知る。すみません。

 

矛盾について。

言葉を、「辻褄合わせ」を行うために発する人っている。私自身陥ってると思う。言葉の運びにこだわることよって、繋がり流れてるように見せかけ、書いてる本人も繋がり流れてるように思い込む。辻褄合わせの誘惑には常に晒されている。

書いてる最中に矛盾なり論の進め方の無理なりを自ら発見した時は、文章全体を破棄するか、または矛盾を矛盾のまま正直に提出するか、しかない。

矛盾を矛盾のまま放り出してツッコミ待ち、というのは当ブログの通常です。

矛盾ゆえに、次の議論の契機になり得る、ということがあるか判りませんが。