sakaifomalhaut(酒井康志): Miku Hatsune sings "Kew. Rhone."

酒井康志氏による、初音ミクが歌う "Kew. Rhone."!!

酒井氏は作曲家、鍵盤楽器奏者、テルミン奏者、バンド 'FOMALHAUT' のメンバー(「リーダー」というご紹介で正しいでしょうか?)、バルトーク「ミクロコスモス」を全曲、ミクに歌わせてしまった方でもあります。

"Kew. Rhone." をお取り上げ下さったことだけでも狂喜ですが、この動画を拝見して初めて、この詩の前半が "Kew. Rhone." に含まれる7文字だけを使って作られていること、最後の行が見事な回文になっていること、に気付きました。

 

(Who?)

We who knew no woe

We who were her hero

(When?)

we were on her knee

When we knew her

When we were one

Where?

Kew.Rhône.

 

We won renown

How?

We were her worker

We won honor enow

When we knew her

When we were one

Where?

Kew.Rhône.

 

Not a set animal

Not a set animal, laminates

Laminates a tone of

A set animal

Animal, laminates

A set animal

Animal, laminates

Laminates a tone of sleep

A tone of sleep

 

Peel's foe

Not a set animal

Laminates a tone of sleep

(いくつかのサイトに載ってる歌詞はそれぞれ部分的に怪しく、適宜参照しました)

 

原曲。酒井氏のカヴァーが如何に完全であることか!!(と申し上げられるほど、私自身はこの曲を把握していないのですが)

 

なお「フォーマルハウト Fomalhaut」はみなみのうお座のα星、視等級1.16、輝星の少ない秋の南天でひときわ目立ちます。

この10数度南、2等星が2つ横に並んであり、地平近く、建物の間に見え隠れしながら夜道をついて来ます。思いがけず明るい星の存在に、つる座のα星とβ星だ、と思い当たるのには時間を要します。

一緒にしてくれるな

いっぱんにどの作曲家についても、「〇〇のファン」という括りが価値の共有を保証しない。その作曲家の、どこを、どう、聴いてるのか、好きなのか。

ではあるけれども、ファンを自称する者同士の会話に最も齟齬を生じるのは、ドビュッシーだ。

 

 

それはドビュッシーの音楽の多義性に原因する。

 

ドビュッシーは従来「印象主義音楽の始祖」と呼ばれてきた。この呼称は、これを用いる者の意識の正確さ深さに応じて、まったく無意味ではない。

 

私が記憶してたのは、

〈「印象主義」という言葉がドビュッシーに対して使われた最初は、「ローマ大賞」に提出した『春』への教授陣の評*1

「氏の作曲に凡庸さはなくむしろ非常に独自だが、氏は氏の『印象主義』から身を守らねばならない」

だった〉

なのだが、そういう内容の記事をウェブ上に咄嗟に見つけられない。美術の場合と同様、音楽でも元来「印象主義」は貶し言葉だった、という記憶。

 

印象主義音楽」を「『気分』や『雰囲気』を重視する音楽」と説明する記事があり、困ったもんだ。Wiki もそう。

「フランス音楽のエスプリ」と銘打つ CD のシリーズにドビュッシーが含まれてると腹が立つ。ドビュッシーが「フランス的」なのではなく、ぎゃくにドビュッシーの影響が絶大で、のちのフランス音楽が「ドビュッシー的」にならざるを得なかったのだ。そしてそれを「エスプリ」という音楽的には凡そ何も意味しない言葉で括る安直。

気分や雰囲気のためということは、ドビュッシー倉本裕基と同じ聴き方で聴くということで、じっさいそういう聴き手は多いんだろう。

 

印象主義」が音楽を語る用語であり得るとすれば、和声の、形式からの「自由」を語る場合だけだ。

曲を進行させる原理としての和声ではなく、カデンツの大枠から自由になった和声が、自律的に移ろい、瞬間瞬間の響きとして充実する。

 

 

ドビュッシーは思潮的には「象徴主義」だ、ともいわれる。「印象主義」呼ばわりしつつモネを連想してたように、「象徴主義」からルドンなりデルヴィルなりを思い併せ、深層心理的世界、官能に陶酔する。

Wiki の定義する「印象主義」と、これが表層的だとして、このイメージを克服すべく持ち出される「ドビュッシー象徴主義論」とは、雰囲気に浸る点で同じで、私はどちらにも与しない。

 

 

私のドビュッシーは「聴覚の自由の権化」としてのドビュッシーだ。音組織について、和声的にカデンツからの自由、ことによると音律的に平均律をも前提と見做してなかったと見える、自由。

パリ万博でジャワのガムランにびっくりし得る耳。

自分の耳の責任で、広大無辺の音の世界から、音楽を自由に聴き取って来てよいのだ、と示して見せたことが、彼が現代音楽を拓いたといわれる所以だ。

ドビュッシーを好きになったら、次に好きになるのは、カプレやブーランジェではなくヴァレーズ、の筈なのだ。

 

ドビュッシーを「どう聴くか」と「どの曲を好きか」とには相関がある。

アラベスク」「月の光」「亜麻色の髪の乙女」が殊更有名曲になってることは、端的に不可解だ。

 

 

ドビュッシーからは私は寧ろソクラテスを思い併せる。

彼に付されたタグは何だっけ?

高校の社会科の教科書には「問答法」「無知の知」は出てきた気がする。で、プラトンの師で、西洋合理主義哲学の大元、みたいなイメージになってた記憶がある。

でも彼については「ダイモンの声」こそ最重要タグではないか?よく判らないけど。

ソクラテスの多義性から、のちの哲学者たちがそれぞれ何を継承し発展させるか(あるいは矮小化し消費しバズワード化するか)。

ドビュッシーもそういう存在だと思う。

*1:2018年09月20日追記

「留学作品『春』への芸術院(アンスティテュ)会員の評」というのが正しいみたい。

メモ(空耳アワー)

つべで「空耳アワー」をよく見るのだが(放送で見たことは殆ど無い)、「ホモ」「オカマ」「ゲイ」がいつも笑いの対象にされてることと、セクハラ(場合によって性犯罪)に対して寛容な表現が少なくないことが、いくら昔だからって通らないだろう、と思う。動画の説明に放送日が記されてることが少なく、どのくらい昔なのか即断できないのだが。

 

で、「空耳アワー」の面白さは、①投稿者による「空耳」自体と、②それを制作者がスキットにして映像化して見せることとにある。私自身の興味は②のほうにある。

②では、「空耳」自体が限定していないシテュエイション、コンテクストを、どう設定するか、それが「いかにも」で面白かったり、「突飛」で面白かったりする。

言葉の上の「ダジャレ」を「絵」にして見せると途端にグロい、という先例として、なんきんのマンガと、Edward Lear "A Book Of Nonsense" を指摘できる。「ダジャレ」ではないけどブリューゲルネーデルランドの諺」にまで遡ってもよいかもしれない。

 

私の好きな作品としてこれの2本中の2本目(2分12秒目~)がある。

www.youtube.com