この御ツイート
たぶんコード(和声)やスケール(音階)について語る人は多くても、メロディ(戦慄、じゃないよ旋律)について語る人が少ないのは、実戦の世界でメロディを奏でる・創るという作業は、その人が内面にどんな語りたい世界(コスモロジー、かな)を持っているか、という話と直結しているから、なのかなと
— SAKAI Yasushi (@fomalhaut) 2017年6月26日
に、沿うのか逸れるのか、私なりに言ってみます。
メロディをメロディそのものとして聴けるほど私の耳は純粋で中立か?
まず、メロディは要素として、音高(音程)、リズム(符割、ステップタイムとゲイトタイム)、強弱を含むけど、ここではその中のとくに音高について。
メロディを作るとは、音を並べる時に、前後の音程関係を選ぶこと。
その時に、まず《外枠》として、小節単位のコードなりスケールなりが想定されてて、それに沿うようにメロディを運んでしまうことがある。
ド→ファ♯というメロディの運びを選ぶ時、最早、耳を、リディアンスケールという《外枠》からニュートラルな状態にして、音程そのものとして聴くことが不可能なほどに、私の耳はコード理論・スケール理論に汚染されている。
ひとくさりの音の連なりを示されたとき、その中のどの位置にどの音程が来るかで、その音の連なりのどこにトナリティの中心があるかを感じてしまう、というのがスケール。
増4度音程を聴かされた時に、無意識裡に、そこから推し測って主音の位置を探してしまう。
そこから自由になれるか?
もしコードなりスケールなりから解放された耳で、音程を、メロディの運びを、選ぶとしたら、そこに働く原理は何なのか。
「私の耳の責任で選ぶ」ということ。
コードなりスケールなりはセオリーだ。
本来、メロディを作るとは、そのまますなわち私の世界を示すことであって、私の耳、私の世界がまず無ければ話にならないのであって、セオリーに責任を委ねることとは、真逆の営みの筈なのだ。