パッソプチプチプチトヨタ

2004年。

最強の洗脳ソング。

当時私が この詞・この曲・このアレンジ・この声質 による訴求力に対して抱いた感情は「嫉妬」だった。当時は検索の手だてを持たず、本日、本間絹子さんとおっしゃる方の作詞作曲と知った。

16年間、脳裏に鮮明に焼き付いてた。

 

本間絹子電通の CM プランナー、コピーライター。自身の作詞作曲(場合により自身のヴォーカル)による多数の CM ソングのほか、NHK みんなのうた「おはようのうた」、CD『おはなしレコード』など。

 

同じ2004年、第2の洗脳ソング。

これは詞・曲・歌ともに本間絹子で間違いない。問題は「パッソ」の歌手が誰なのかだ。

私は両方とも同じ歌手と見做してたんだけど、こちらの御記事

で微妙になった。

「歌は、公式ページではSunny、ACC CM年鑑では本間となっている。当時、本人が歌おうと思ったが断念した、という話もあった」

Sunny が誰なのか、ググるも、特定できず。声質やスタイルが本間に似てるし、本間を「断念」させる事情って、本当にあったんだろうか?

初心

最初のプログレ体験で、扉が開かれる。

その先に何が待ってるのか、想像が突き抜ける。

宝庫は、こちらのナイーヴな想像を超えて、遥かに自由で遥かに豊饒だったのだけど、

それにかかずらううち、何か大事なものを置き忘れてきた気がする瞬間がある。

 

初心は「きっかけ」、宝庫への入り口に過ぎなくて、

宝庫は、学びきれないくらい。

でも、「学ぶ」姿勢が、宝庫を閉じたものにする。

突き抜けるのは、可能性に開かれるのは、初心。

 

私個人は、初心を忘れたくないスタンスにいる。

あのとき想像の先に聴こえていた音は、そのものは、

もし今それを同じように聴くことが出来れば、いかにも貧しく、学びによって完全に克服されたものにちがいないけど、

閉じてしまわないスタンスは、忘れたくない。

 

私がこっちとあっちの線引きをする基準は、レコメンかシンフォか、とかの「スタイル」じゃなくて、「スタンス」。

 

私はこのままこういう人なのかも、と思うと寒気がしもする。

深まってゆくということがない。瞬間瞬間の目醒ましいワクワクを至上に生きてて、学として集大成することを「ロックじゃない」と思ってる。

もう言い訳になるほどは若くないのだし。

さっきアメブロで、美空ひばり車屋さん」を貼りつつ

「今の若い方は、東京事変のカヴァーでご存じかも知れませんね」

と書いた*1けど、これはギャグとして成立しない、現に私は「今の若い方」ではないのだった。

 

私は「ナイーヴ」を(「幻想」などと同様)否定的な意味で使う。

あと、世阿弥オリジナルの「初心忘るべからず」は、一般の使われ方とは意味がだいぶ違うらしいけど、ここでは立ち入らない。

*1:追記 2020年08月25日

ちなみにこの記事です:

ameblo.jp

ちはやふる

ちはやふる」って落語「千早振る」を映画化したものじゃないのか…

 

そういえば、たしかにどこかで読んだはずの文章が、ググってもヒットしない、の例として。

次のようなご隠居と八っつぁんのやりとりが、何かの文章の中で引用されていたのだけど、その文章も、引用元の落語も、見つからない。

「『うわばみ』ってのは何です?」

「まず『うわ』ってのがあるな」

「脅かしちゃいけません」

「この『うわ』ってのはな、ばみるんだ」

「へえ、私はてっきり『うわ』ってのはばみらねえもんとばかり思ってました」

 

この、知識人の体面というか、知ったかぶりのその場しのぎというか、テキストのみに依拠する解釈が真理に辿り着けない感じというか、テキストに厳密に基づいてるようでいて論を恣意的に進める感じというか、が「千早振る」に共通する。

ヒットしないということは、あるいは落語の本文ではなく1回限りのマクラなのだろうか?

 

舞台用語「バミる」の語源について、「場を見る」から来てて、これを四段活用させたもの、というのは、定説なんだろうけど、無理がある。他にもうひとつ何かの語源的要因がないと成立不可能な気がする。↑に引いた落語のくだりが、それなのではないか?

 

ちなみに「ちはやふる」は「ちょうちょ」に掛かる枕詞です。