音で絵が見える

じつは、感想のパターンとして「◯◯のシーンが思い浮かびました」は非常に多いのです。

思い浮かんだのは聴き手においてであって、作品とは無関係で、それを報告して来られても、作者としては返答に困るのです。

「なつい」という感想も同様で、なついのは聴き手の個人的事情で、作品自体、音楽的内容自体への評価の言葉ではありません。逆に作品を蔑ろにする言葉です。

当ブログで再三書いたことなのですが。

あと、作品内容と無関係に言い回しを捏ねる例として「無人島に1枚だけ持って行くとしたら」があります。勝手に持って行け。

 

ただ、申し上げてるのは、以上が作品理解の妨げでしかない、そこに積極的な意味は何も無い、ということであって、音から絵が浮かぶ現象の存在自体を否定するつもりはないです。

 

私の頭の中で、アメーバピグのパズルゲームの数多いパターンそれぞれが、いつの間にか特定の国や地方のイメージと結びついてます。

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↑これは韓国です。

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↑これはロンドンです。

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↑これもロンドンです。

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↑これはヴィクトリア時代のイギリスです。

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↑これはスカンディナヴィアです。

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↑これは古代エジプトです。

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↑これは藤原時代の京都です。これ見ると越天楽が流れ出します。

あと、あるパターンから反射的に必ず特定の人が思い浮かぶ、というのもたくさんあります。

「これは E. T. A. ホフマンの作品世界だ」とかも。

何言ってるか判らないでしょ? じっさい連想に根拠は何も無いのです。でもいったん結びついてしまうと取り消せない。

 

Genesis 'The Knife' の3分過ぎからの静かなインスト部分に差し掛かると必ず、小学3年と4年を過ごした学校の裏庭の様子が浮かぶように条件づけられています。根拠はありませんが、いったん開いてしまった回路は打ち消せません。 

ちなみに、↑はいつのエディションか私には判らないのですが、リマスターによってかなり大きく改変されています。

私がいちばん気になるのは、ヴォーカルに掛かるエフェクトです。

3か所、①1分13秒目、②2分09秒目、③8分27秒目。3か所とも同様にディストーションフランジャーイコライザー(かな?エフェクト名よく知りません)が掛かっています。

↓はオリジナルに近いミックスです。

同じ箇所の、①②はリング・モデュレイション(かな?)、③はリヴァーブが深くなってスケール感を演出して曲を終えています。

私はこのオリジナルの処理が好きなので、リマスター改変が残念です。

 

ジェネシスのリマスターは何種類かあるようですが、無謀な処理が多いです。

"Broadway" が冒頭フェイド・インで始まるとか、'The Lamia' 終わり近くのフルート・ソロが聴こえないとか、"Nursery Cryme" で曲間がなくメドレーになってるとか。

つべで聴いたものなので、それぞれいつのエディションか特定できてないのですが。

てるやま #苗字の日

一昨日2月13日、「苗字の日」に因んで下書きしてた。

 

こちらの御記事

によると、「苗字の日」は年2回ある。

9月19日は「平民名字許可令」に由来、

2月13日は「平民苗字必称義務令」に由来。

 

ジュニアアイドル雑誌ピュア☆ピュア」の読者ページ「ピュア☆ピュアネットワーク」の常連に「てるやま」というペンネームの方がいらした。

ググると「照山」という苗字はじっさいある。

あと、クラスに「照屋」が2名以上いる場合、区別のため下の名前の1音目を付けて、照屋寛徳さんは「照屋か」、照屋林助さんは「照屋り」と呼ばれる。

照屋マンドラゴラさんは「照屋マ」と呼ばれることになる。同じクラスに照屋マンドレイクさんがいたら、それぞれ「照屋マンドラ」「照屋マンドレ」と呼ばれることになる。

いずれにせよ、今にして思えば、苗字らしさを備えたペンネームとして「てるやま」を名乗る、ということはあり得る。のだが、当時私はこれを苗字らしいと思えず、出典としてただひとつ、唱歌「紅葉」の第1行

 

秋の夕日に照る山紅葉

 

だけが思い当たった。

私は邪推した。

ピュア☆ピュアスタッフに藤原秋さんという方がいらして、編集後記の略称が「秋」。

編集長は廣瀬佑志氏で、略称が「U」。

てるやま氏は、論調が、読者というより、スタッフ目線、ライター目線に近い。じつはスタッフのどなたかお1人の変名、もしくはスタッフたちによって設定されたキャラクター、なのではないか。

そしてこのことを仄めかすのが、

「秋」→「夕=U」→「照る山=てるやま」、

唱歌「紅葉」の歌詞の文節の冒頭を辿ると導かれる「てるやま」というペンネームなのではないか、と。

わだばクセナキスになる

コメント欄から、SoundCloud にアップしている曲についてご感想を頂戴した。ありがとうございます。これへのご返答を考える過程で、改めて考えたこと。

 

 

今回のあらすじ:

欲しい音楽が頭の中にまずあって、これを実現する方法(例えば DTM)を選ぶ、というのは、正しくはある。が、逆に方法が音楽の在りようを決める、ということが、殊に DTM の場合大いにあるし、面白い。

 

 

DTM をやる動機やスタンスは大別して

①作曲のため

DTM 自体が好き

③その他

がある。

②は機材愛、作業自体が好き、これが音楽的動機に優先するもの。

 

私の関心は「作曲」にある。にしかない。

私の中に形にしたい音楽がある。形にするためのツールは内なる音楽の要請で決まる。

ほんとうならオーケストラが1つ欲しいのである。お金が無いので次善策として打込みやってる。まあ相性は悪くない。

(KORG01/WFD 1台で完結させるのを「DTM」と呼んで良いかは知らない。基本同じだよね?)

 

専ら生演奏の「シミュレイション」。発想の順番として、クラシックのフレージング(強弱、テンポ変化、などの作り込み)の癖が沁みついてて、それを打込みに置き換える、ということしかやってない。

「演奏不可能」は避けてしまう。「ギターなのに半音間隔で6つ音が重なってる」とか「ヴァイオリンソロで同時に5音鳴ってる」とか「B♭管なのに a が出て来る」とか。

 

なお「動機③その他」として「ダイエット」がある。作業のあいだは寝食を忘れてる。

 

DTM ないし打込みなればこその可能性という視点からすると、もったいない。

機材、作業の側から新しい音楽が発想される。これを見落とさない、排除しない。むしろ逆に、制約を外して好き放題やる、ということを、今後は貪欲に積極的に追究すべきだ。

 

それで思い出した。ピアニズムについて。

リストの曲がどんなに難しくても、一応、頑張れば弾ける作りになってる(いやなってない)。

リストがピアノを熟知してるからである。ピアニズムの極致としての「難しさ」。

いっぽうクセナキスピアノ曲は、まったく別の意味で「難しい」。ヒトの音楽把握力にとって、本当に「演奏不可能」だ。

ピアノ、ピアニストの都合をまったく考慮してないからである。

 

クセナキスみたいにやるべきだし、やれる。ツールを持ってるのだから。