arabesque musicale

「音楽のアラベスク」。

 

ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏』(平島正郎訳、岩波文庫)第6章「名演奏家」は、内実ほぼバッハ論、バッハへのオマージュになってる。

 

本文から。

「この協奏曲(しんかい註:前段で「ヨーハン・ゼバスティアン・バッハのヴァイオリン協奏曲ト調」と呼ばれてる曲*1)は、大バッハの楽譜帳にかつて書きこまれたたくさんのあいだでの、感嘆すべきひとつである。そこには、あの〈音楽のアラベスク〉、というよりむしろ芸術のあらゆる様態(モード)の根底である〈装飾〉のあの原理が、ほとんど無疵なままで見出される。(〈装飾〉ということばは、音楽の文法がそれに与えている意味とは、この際なにも関係がない。)

 最初期の人たちや、パレストリーナ、ヴィクトリア、オルランド・ディ・ラッソなど……は、この聖なる〈アラベスク〉を用いた。彼らはその原理をグレゴリウス聖歌のなかにみつけだし、その儚(はかな)い組合せ模様を、がっしりした対位法で支えた。バッハは、ふたたびアラベスクを手にしながら、それをいっそうしなやかな、いっそう流動的なものとした。そしてそれは、この巨匠が美にまもらせていた厳格な規律にもかかわらず、われわれの時代をもなお驚かす常に新たにされるあの自由な幻想とともに、動くことができた。

 バッハの音楽においてひとを感動させるのは、旋律の性格ではない。その曲線である。さらにしばしばまた、多数の線の平行した動きだ。それらの線の出会いが、偶然であるにせよ必然の一致にせよ、感動を誘う。こうした装飾的な構想に、音楽は、公衆が感銘を受け心象をいだくようにはたらきかける機械のごとき確実さをもたらす。

なにか自然でないもの人工的なものがあるかのように、考えないでいただきたい。どこまでもその逆で、楽劇(ドラム・リリック)がたててみせるいじましい人間的な叫びより、もっと〈真実〉なのである」(pp. 69 - 70)

「バッハを〈口笛でふく〉のはおよそ聞いたことがないのに、だれしもすぐ気付くに相違ない」(p. 70)

 

訳注 (5) から、ドビュッシーが「ムジカ」1902年10月号に書いた一文からの引用。

「音楽のすべてを内にもつ老バッハは、信じて欲しいが、和声の公式を軽蔑していた。それよりも響きの自由なたわむれのほうを、彼は好んだ。そのたわむれの曲線は、平行して動くにせよ反対の向きにくいちがった動きをとるにせよ、彼の数かぎりない楽譜帳に書きこまれた最小のものをも不滅の美でかざる思いがけない開花をみちびいた。

 〈ほれぼれするアラベスク〉が花を咲かせ、そして音楽が自然の総体の動きのなかに書きこまれている「美の法則」とかくて力をあわせた、そんな時期であった。……」(pp. 77 - 78)

 

訳注 (5) では、ドビュッシーアラベスク観を形作った影響元である可能性のあるものとして、エドゥアルト・ハンスリック『音楽美論』(1893年にフランス語訳が出てる。ただし訳者は「ドビュッシーがそれを読んだかどうかは知らない」そうです)と、それにもまして「ナビ派あるいはアール・ヌウヴォ」を挙げる。

ハンスリック『音楽美学』について、訳注から。

「これは、音楽の内容を感情であるとする、あるいは目的を感情表現にあるとする一般的な考えかたをしりぞけて、自律的な音楽美学へのみちをひらいた画期的な名著だが、「音楽の内容は響きつつ動く形式である」と定義してから、アラベスクをもちだしてつぎのように述べる(中略)「音楽が一定の情緒の内容なしにいかにして美的形式をもたらすことができるかは、かけはなれたことではあるがすでに造形芸術の装飾の一種がこれを我々に示してくれる。すなわちアラベスクがこれである」「アラベスクはカーヴの線から成っているが、あるところでは優雅に頭を垂(た)れ、他のところでは大胆に上昇し、或は互いに合流し、或は互いに離れ合い、大小のウェーヴに相称し、ちょっと見たところは無統制のようでしかも整然と構成され、到るところに対応するものを迎えながら、小さな細部の集合にしてしかも一つの全体を成す。一つのアラベスクを死んだもの、休止したものとせず、我々の眼前で絶えず自己形成を行ってゆくものと考えることができよう。(中略)*2この潑溂(はつらつ)たるアラベスクを一つの芸術的精神の活動的な発現と考えて見るならば、いいかえればかかる精神が自らのファンタジーを絶え間なくこの運動の動脈に注ぎこむとするならば、この印象は音楽的印象にある程度似(に)ているとはいえないであろうか?」(渡辺護氏訳『音楽美論』岩波文庫、第三章「音楽美」七六-七七頁より)」

 

ドビュッシーには曲名としても「2つのアラベスク」(1888年)があるわけだけど、あれと、ここでいう、形式を生み出す原理、絶えず自らを編んでゆくダイナミズムとしてのアラベスクとを、直接に結び付けて見る必要はないと思う。

 

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*1:この曲名がバッハのどの曲を指すのかについての議論は省略します。

*2:この「(中略)」は平島正郎氏によるものです。

高橋悠治「もりこ」

NHK-FM の帯番組「サウンドストリート」は、曜日ごとのパーソナリティがいて、火曜日は坂本龍一の担当だった。

第39回、1982年04月13日放送分は、ゲストに高橋悠治を迎えた。

曲は5曲掛かって、最初の4曲はテープないしディスク出し。

36'46" にスタジオを移動し、最後の1曲は、37'46"~ 41'42"、高橋悠治「もりこ」の 2 piano version。高橋と坂本の2台ピアノで、生収録。

演奏後、高橋の解説:

「最初はね、ピアノ1台を2人で弾く曲だったわけ。

ふつうね、2人の連弾っていうものはさ、女の子とピアノの先生がやるもんなんだよね。それでその手がね途中で交差したりなんかしてね、そこでこう微かに胸のときめきを覚えるとかそういうことをやるわけ。

なんだけど、この場合はですね、もう手が全く重なってね、同じ音を2人が縺れ合って弾くっていうような曲を作ったもんだから、誰がやってもね、必ずしくじるのね。絶対上手く行かないし、1人で練習しようもないわけ、こういうものは」

「ピアノっていうのはね、上手い人っていうのはさ、こう鍵盤の端から端までこう駆け巡ったりしてね、で上手いなあっていう感じで聴くわけじゃないそれをね。だから1人でこう2人も3人分もね、やってる凄い、っていうことになるわけね。

ところがね、1人でね上手く出来るようなことをね2人に分けてみると全然これが上手くいかないの、いくら上手い人がやっても。そういうことなのよ」

 

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夜ご飯

2020年04月24日にアメブロで、お題「夜ご飯の定番メニュー教えて!」に応えて書いた内容です。

 

「正しい日本語」を言い募る者ほど「正しさ」を論理的に説明できなかったり、自らの「排除」の態度こそが日本語を貧しくすることに気付かなかったりする矛盾と滑稽。

 

「真逆」という語の時と同じ光景。「夜ご飯」についても、ああやっぱり、

「『夜ご飯』じゃない。『晩ご飯』だ」

って言いたがる人がいるんだ。

 

「夜ご飯」は比較的新しく言われだした。それだけ。

 

私自身、古風な響きの「晩ご飯」を好んで敢えて使うけど、他人様に指図するとか、世の中かくあるべしとか、は毛頭無い。

 

日本語がどうあるべきか考えるのは大事*1

言葉が時代とともに変わるのは当然といっても、私が嫌うのは、自らの日本語について無自覚・無責任な故に流されること。

「真逆」「夜ご飯」の是非を論ずることが正しい日本語を考えることじゃない。

 

「正しい」の理由を安易に「慣習」に求めない。

なぜ「がの」「をの」という助詞が無いのか、疑問に思ってみる。だって「君の夢」じゃ your dream なのか a dream of you なのか区別が付かない。「君がの夢」「君をの夢」と言えたら一聴で区別できて便利なのに、「正しい」日本語と認定されない、ということを「不合理」と感じることができるセンスの持ち主であるかどうか。

 

明日「に」期待し、明日「を」展望する。なのに、明日「への」期待、明日「への」展望と言う。

明日「にの」期待、明日「をの」展望と言うことをなぜ日本語は許さないのか。とか。

(「〇〇への△△」という名詞句的言い回しは翻訳文的に響く。歴史が浅いのかも知れない。「〇〇に△△する」という平叙文を名詞句的言い回しに変換する時の手続きを熟させ定着させるのに、性急だったのかも知れない。)

 

もちろん私だって、自分の話す一語一語について、語源を深く理解し語義を厳密に弁えてるわけじゃないけど。

大事なのは、

一方では、それぞれの単語やフレーズの背負ってる歴史をできるだけ深く知ろうとする態度。

他方では、いったん論理学的にとことんまで突き詰めて、コンヴェンションを排除してみること。

 

一方では、論理的に考えて可能な、というかむしろそっちであるべき言い回しと、実際に行われてる言い回しとの差を炙り出す。

他方では、なぜその言い回しが採用された/されなかったのかを歴史に問う。

 

ところで、日本語の「正しさ」警察の方の中には、「湯桶読み」「重箱読み」を避ける傾向にあったり、

「『ひと段落』じゃない。『いち段落』だ」

とイミフの難癖を付けたり、など音訓の整合性に敏感な方がいらっしゃるけど、その方は「朝ご飯」「昼ご飯」「晩ご飯」については、訓読みの「朝」「昼」ときて「晩」だけ音読みなことは容認できるんだろうか?

*1:「体言止め」も批判の対象になりがちだけど、これについての私のスタンスは、別の機会に書くかも知れない。