しりとり

かしゆか

「カニシカ」

「カリオカ」

「空手家」

「空バカ」

「空バカ??」

「『空手バカボン』の略称」

「管理下」

カリンカ

「監視下」

「過激化」

「かしいか」

「かしいか???」

「あるじゃん『かしいかえん』って」

「『かしいか  えん』じゃなくて『かしい  かえん』だろどっちかというと」

 

《1938年(昭和13年)に当時の博多湾鉄道汽船が「香椎チューリップ園」として開園した。太平洋戦争中に閉鎖され従業員の食糧自給のための農園に転用されたが、1956年(昭和31年)に「香椎花園」として改めて開園した》

Wikipedia西鉄香椎花園

 

「じゃ『かしいかえん』」

「勝った」

「あ!1回だけ待って!じゃ『かしいかえん シルバニアガーデン』」

私を構成する6枚

すこしまえに「#私を構成する9枚」が流行った。

「今時点の私にとってヴィヴィッド」というのとは違う。

ケツに抜かしてるもの、いや血肉化してるもの。血肉化してることを私自身意識できてるとは限らないもの。

それとの出会いによって私の世界が変わった、でも今の私にとっては当たり前の、音楽。

 

 

その意味で私を構成する、1枚目は、これだ。

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「こんなに好き勝手やっていいんだ!」というショック。この「好き勝手」ということが、そのまま私にとっての「プログレ」の定義、と言い切って良い。

 

とんがったままごちゃついて、多様な可能性に開かれて、聴き手の耳を自由にし活性にする。この「ありよう」が、作品としての「完成度」に優先する。

完成度を測ることはものさしを前提とする。プログレは逆にものさしを疑うことだ。

そしてこの私のプログレ観を決定したのが、この『狂気』だった。

例えば、最近やけに好評の BAROCK PROJECT が、私には「約束づけられた問いの立て方への約束づけられた回答のし方」にしか聴こえなくて、全くワクワクしないのは、私のプログレ観がつまりそういうことだから。

 

 

 ②

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「夢見がち」な少女を「覚醒」させた1枚。

 

音楽は音楽自律の「方法」に徹せねばならない。

音楽作品が「幻想的」「シュール」であっていけないわけではないが、私の、イメージありきでその表層をなぞり音楽に置き換える企て(描写音楽、標題楽の発想)は、悉く不毛に終わった。

このアルバムと出会って、作曲のスタンスが変わったし救われた。

 

このアルバムをシュールと評することも出来るかもだが、「シュールを作曲・表出してる」わけではなく、逆に「システム」を設えることに徹してるふうに見える。その中に放り込まれた音の素材が物理的即物的に振る舞うための。音の振舞いが「作曲・表出」のコンヴェンションを逸脱してるので結果としてシュール、ということはあり得る。

結果を予定しないこと=新たなシュールを拓くこと。

 

 

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4曲中3曲が、帯に記載の Gong Kebyar Dharma Santi による演奏。

最後の1曲は別グループの演奏で、スリン・ガンブの編成。

ゴン・クビャールのほうは、派手な響きと超絶速いテンポで、「バリのガムラン」鑑賞欲をこれでもかと満たす。

でも私が魂持ってかれたのはガンブのほうで、響きが、イメージしてた「バリのガムラン」とまったく違ってた。幽玄というか、静謐で秘儀的。

けたたましいグンデルではなく、トライアングルみたいに高く澄んだ音色の金属打楽器(名前忘れた)や「鈴の木」でビートが刻まれ、主メロは数本のスリンのユニゾン。小節(こぶし)の多いメロディをユニゾンでやることで、モノフォニーでありつつ半ばヘテロフォニック。

音階も、分類すれば「ペログ音階」なんだろうけど、それで割り切れないこの世ならぬ調子。高音域で別の音階が接続されるように聴こえる。

 

このアルバムは日本公演時の録音。ガムランはいっぽうではコミュニティの「場」と結びついて「持ち運びできない」性質を持ってる。もういっぽうでは、そのあまりに高度な音楽を、音楽自体=芸能として切り離して、世界各地のコンサートホールをツアーして回るべき、また世界各地の演奏家によって取り上げられるべき、ユニヴァーサルな性格を持ってる。

私は例えば小泉文夫の現地録音にこそ「本物」を感じるけど、いっぽうで、音楽自体を聴くのに、アレンジの構造を完璧に捉えたこのアルバムの価値は高い。

 

 

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戦後のいわゆる現代音楽を、難解に戸惑ったり、能書に退屈したりしながら聴き進むのに、こういう、審美的な、響きとしてうっとりする音楽との出会いが励みになる。

Ohana は「オアナ」表記が一般的だろう。タイトルの 'Syllabaire pour Phèdre' の正しい訳(=作曲者の含意)は判らない。syllabaire(表節文字)は「音節を単位として表す表音文字」だから、そのいちばんよい例は、日本語の「仮名」。

www.youtube.com

日記

「赤」の定義を読みたかった。

 

広辞苑第四版にがっかりする。曰く:

 

あか【赤】(一説に、「くろ(暗)」の対で、原義は明の意という。→あお)①七色の一。血のような色。また、緋色・紅色・朱色・茶色などの総称。(以下略)

 

広辞苑には「辞典」としての役目と「事典」としての役目とを期待している。

「辞典」としてなら、やまとことば「あか」の語源、語義の広がりと限定(できれば「字典」として漢字「赤」の字源字義も)を述べればいい。

でもいっぽうで、今私が読みたいのは、「赤」とは現実においてどういう現象なのかの説明、「赤」と呼ばれる現象のいちばん厳密な定義で、つまり「事典」の役目を期待してるのだった。

たとえば光の波長で定義すれば、「赤」の語で厳密に「たった一つの色」を指し示すことができる筈だ。

私の読みたい記述は Wikipedia「赤」の項にあった:

 

国際照明委員会 (CIE) は700 nm の波長をRGB表色系においてR(赤)と規定している。

 

にしても「血のような色」ですか…

これは「血のような色を赤と呼ぶ」という「定義」ではなく、「血はたまたま赤い」という「観察結果の報告」ですね…

これがまずいのは、真実は、血の色で赤を説明するのではなく、赤で血の色を説明するのだからだ。赤の定義が「郵便ポストのような色」「消防車のような色」ではなく他ならぬ「血のような色」で行われなければならない理由が無い。

「血は赤」だが「血が赤」ではないのだ。

 

ちなみに、広辞苑の前掲項に「→あお」とあるので、参照した:

「(一説に、古代日本語では、固有の色名としては、アカ・クロ・シロ・アオがあるのみで、それは明・暗・顕・漠を原義とするという。(略))」

www.colordic.org

www.colordic.org

 

追記 これ思い出した:

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数年前、上野毛に引っ越したのは夏だった。

住み始めて数日目のある夜、部屋にいると、俄然、辺りが騒然となった。通りに、かなりの人数が繰り出し、進んで行く音がする。

非常事態が展開してるようだった。何事?と思ってると、間近にバン(銃声)!地響きがドン(砲声)!

市街戦だった。

近くを多摩川が流れてるのを意識してなかったし、花火大会があることに関心を払っていなかった。

 

 

単位「カロリー」を「熱量」の意味の名詞として使う。「カロリーが高い」「カロリーを摂取する」

「センチメートルが長い」「デシベルを稼ぐ」とは言うまいに。

 

もっとも、「カロリー」は「熱」の意味の語源(ラテン語)から来ている。

でも、巷で、そういう語源が意識されてこの用法が行われ、浸透してる、わけではないだろう。

 

何故「カロリー」だけにこれが起きるのだろう?と思ってると、最近「ギガ」についてのツイートを見掛けた。「ギガが減る」という言い回し、「2ギガしか残ってない」ではなく「2しかギガ残ってない」という言い回し、が行われるらしい。

 

 

大事なアイデアはトイレで思い付く。

トイレを出る頃には必ず忘れてる。

そうだ、メモ帳を備え付けておこう!

というアイデアをトイレで思い付く。