spark氏に

発端はこちらの御ツイでした:

 

当時私はこちらのメモ的な記事:

で、

《私自身、「原音に忠実に」や「表記の法則に一貫性を」な「管理」の立場と、「言葉は融通無碍な生き物」な「レッセフェール」の立場との間で振れて来て、もともとは前者だったけど、最近は後者に振れてる。

日本語生活の「場」に放り込まれた単語の、表記が決まってゆくのに、原音をなぞるとか、綴りにつられるとか、人々の関心の積極性の度合いとか、多くの要素が働いて、場合によってどの要素が強く出るか、ケースバイケースで構わない。むしろそれが面白い。

「人々の関心の積極性の度合い」についていうと、これが低い場合は、「綴り」に引きずられる傾向になると思う。新たに触れる英単語について「音」で情報を得るには、より積極的なアクセスが求められるのではないか》

と、一応纏めました。

 

にしても何故「関心の積極性が低い」のか。

「日本人の向学心の無さ」という理由以外に、次のことがあると思います。

簡単に言うと、日本語の音韻体系が特殊だから、です。

外国語を原音に忠実にカナ表記することをハナから諦めざるを得ない、という事情があるからです。

[母音1つ] または [子音1つ+母音1つ] または [ん] または [っ] で1音節。[k] を表記するには、本来 [ku] に対応する「ク」で代用する以外に無い*1

 

すなわち「外国語の単語」と「外来語」を分けて考えてる。

外来語は、日本語の音韻体系の中で定着した、日本語としての語彙です。 

ことに英語やドイツ語は、音韻体系が日本語と違い過ぎる。ロマンス諸語はまだしも。

日本には「ローマ字」があり、アルファベットの音とカナの音が対応してる。外国語の単語を取り入れて日常の言語生活の中で使う時には、この対応に沿ってカナ表記して「外来語」化する。

これとは別途、「外国語の単語」そのものとして扱う時、つまり「原音への忠実」が求められる場面では、表記はカナではなく発音記号による。

それしか方法が無いからです。

日常の言語生活においては、つまりカナで発想する限りでは、「原音に忠実な表記」に、こだわりたくてもこだわりようがないのです。

[k] を「ク」としか表記しようのない体系の中で、いっぽうで Wikipedia を「ウィキピディア」(もしくは「ウィキピーディア」)と表記することにこだわるのはアンバランス、ということです。

 

以上は「関心の積極性の低さ」の理由を説明する試みです。spark氏のご設問へのストレイトな回答ではなく、それをめぐって勝手に巡らした思い、になってしまいました。

 

韓国語の音韻は、英語やドイツ語の音韻との間に、日本語の場合ほどは障壁が無い、と拝察します。

また、ハングルは英語やドイツ語の音を表記するのに便利なのだろうと思います。

1文字=1音節なのはカナに似てますが、文字は音素の組み合わせで出来てるので、アルファベットでもある。

おそらく、日常の言語生活での表記と、言語そのものを論じる場での表記に、乖離が無くて済んでいるのではないでしょうか。

(勝手な想像を多く含みます。すみません。)

 

この記事の結論は

「ハングルは、他言語に開かれた、羨むべき合理性を備えた体系である」

になりそうです。

*1:私が違和感を覚える外来語に「エグゼクティヴ」があります。

もとは ex・ec・u・tive なので、これを「エグゼクティヴ」と表記するのは無理ではない。しかし一旦「ク」と表記されると、どうしても(標準語では)「ku」ではなく「k」と読まれてしまい、そのまま定着する。

これを避けるために、何故最初から「エグゼキュティヴ」と表記しなかったのか。

Genesis "The Lamb Lies Down On Broadway"

11月18日は、 Genesis "The Lamb Lies Down On Broadway" がリリースされた日(1974年)。

 

大掛かりな曲構成トータルで世界をひとつ作り上げる志向が、'The Musical Box'(10分)→ 'Supper's Ready'(23分)と進んで、ここに至って遂にLP2枚組90分すべてを使うことになる。

歌詞はゲイブリエルが1人で書いた。

DVD "Songbook" 中のインタヴューでバンクスは「そのせいでへヴィーなものになってしまった」と不満を述べてた(いま手許に無いので不正確な引用)。

この時の経緯は、Wiki日本語版によると、

「構想段階ではマイク・ラザフォードによりアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ星の王子さまをテーマとした作品にしようとの意見が提案されたがピータ・ガブリエルによって「気取っている」「おとぎ話は時代遅れだ」等と反対されてしまい、最終的にガブリエルが全歌詞を担当することとなりウエスト・サイド物語天路歴程エル・トポといった作品やカール・グスタフ・ユングアレハンドロ・ホドロフスキーの思想等をベースにラエルという名のニューヨークに住むプエルトリコ人少年を主人公としたストーリーを書き上げている。ストーリーは少年の自己を見つめる精神的旅行という内容で、その道中に少年は様々な不思議な生物に出会うという少々難解な物であり、他のメンバーはよりシンプルな内容を志向したため徐々にガブリエルとの摩擦を生むことになる」

(「眩惑のブロードウェイ」の項)

 

私がジェネシス、殊にこの『ブロードウェイ』で面白いと思うのは、語本来の意味で「シンフォニック」であること。

部分と部分、部分と全体が、有機的に関連して響き合う。ひらたく言って「モティーフの処理が巧み」。

いくつかのモティーフが設定されて、アルバムの各所で繰返し登場する。その度にアレンジや和声的意味付けが変わってる。一聴して「リプライズ」と判るとは限らないやり方で、曲を、内側から、有機的に構成する。

その一例。

↑の2曲はモティーフ的に繋がりがある。

すなわち、'The Light Dies Down On Broadway' のイントロの gis - fis - cis - fis

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が、'Riding The Scree' のコーダ(3'35"~)で、音価を変えて

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と変奏される。

(そもそも 'The Light Dies Down On Broadway' は、タイトルからしてアルバムオープニング曲 'The Lamb Lies Down On Broadway' のリプライズという性格が強いのだが、同時に 'The Lamia' のリプライズでもある。'The Light Dies Down On Broadway' のAメロは、'The Lamia' のBメロの使い回しである。)

 

私はこのアルバムのミックスが都合何種類あるか把握してない。

最初に聴いたのは実家にあったアナログ盤。

私が買ったエディション(CD)では、開始部がフェイドインという無謀な処理をされていた。

アナログ盤を聴くと、バックでブーム音が薄く持続してて、開始部のような弱奏の箇所でこれが目立つので、これへのノイズ・リダクション意識が行き過ぎたんだろう。

 

私はヒプノシスを好きじゃないけど、このアルバムのアートワークは、音楽の世界を正しくヴィジュアライズしてて良い、と思う。

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サイトをなぜか埋め込みにできない:

The Lamb Lies Down On Broadway - album 1974

 

関連記事:

#ベースの日

私の Percy Jones との出会いはこれだった。

Eno 'Sky Saw'

 

彼がイケメン紳士なのを知ったのは最近で、それまで彼の変態プレイから思い描いてたパーシーは、

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こんなだった。

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私はロックを「作曲」で聴く。

当ブログで「演奏」面を論じることが殆ど無いのに今更呆れる。

 

同様に「バカテク」とされる Gentle Giant と Yes の、しかしその内実には大きな差がある。

GG の長所は「アンサンブル能力」であって、個別のプレイヤー、例えば Ray Shulman を「好きなベーシスト」として挙げることは難しい。

(Kerry Minnear はわたし的に別格で、「いちばん好きなキーボーディスト」だけど)

 

較べて Yes は「ソリストが5人いる」みたいなバンドだ。

Chris Squire のベースは、音色がガキゴキしてるとか、速弾きとか、特徴はいろいろあるけど、「ゴーストノート」も特徴だと思う。一聴単純なフレーズも実は微細にカウントされてる、みたいな。それが「きびきびしたグルーヴ」の秘密、みたいな。

'Roundabout' はそれがよく聴き取れる曲・録音なので、貼っておく。

曲としては私は全然好きじゃないけど。

 

曲としてはこれが好き。

 

 

去年2016年の今日は、この記事を書いてた: