ふいんき

雰囲気が悪なのではない。

特定のシテュエイションに結びついた、例えば「伊勢神宮の棟持柱の死角で人知れず欠伸をするロバート・スミスのような雰囲気」であっても、もっと漠然と捉えがたい「雰囲気」であっても。

問題は作曲における手順だ。 

 

「作曲」は「書法の提示」である。作曲イコールそのまま毎回新たな書法を拓くプロセスであり、またはそのアウトプットを示すことである。

ある雰囲気を「表現」するためにある書法を採用する、のではなく、書法はそれ自体として追究される。雰囲気は後付けで醸される、または醸されない。 

 

ある作曲家の作品がいつもその人固有の雰囲気を纏ってる時、それは長所だし、憧れてよいけれど、作曲家の「テンペラメント」に属することを「意図」で真似は出来ない。私は私の書法の追究に専念し、結果として何かの雰囲気を醸すなら拒絶しないし、醸さないなら自らの純粋を喜ぶ。

Buddy Guy with Jack Bruce and Buddy Miles 'Mary Had A Little Lamb'

バディ・ガイをほぼ知らないのですが、3年前、のぶはる氏がこちらの御記事

で紹介下さった動画の1曲目にびっくりしたのでした。

ブルーズの定型「12小節」

ⅠⅠⅠⅠⅣⅣⅠⅠⅤⅣⅠⅠ

の最初4小節を端折って、8小節

ⅣⅣⅠⅠⅤⅣⅠⅠ

でリフレインする構成の曲というのは、他に例があるのでしょうか??

この性急に畳み掛けるスピード感の理由は、長さ的に冗長さを回避してることと、各楽節がⅣから始まることが推進力を生んでること、だと思います。

 

3年前当時差し上げたコメントに、のぶはる氏が返信下さって、「この動画の元である『Super show』は実質バディ・ガイローランド・カークが主役」とのことでした。そういえばたしかに当時アメーバピグの音楽フロアでこの2人の競演する動画が掛かるのを2、3回見ました。

4度

「音楽に sus4 の解決を持ち込むな」は私のスローガンだけど、「sus4」がダメなのではなくて「の解決」がダメなのだ。常套手段だから。

 

4度への好みを、私は強く持ってる。

子どもの頃、「ドミソ」の和音にもう1個音を足すとしたら、

f:id:shinkai6501:20170330185114p:plain

の、

1「ドレミソ」は、地べたの、下世話な音で、嫌い

2「ドミファソ」は、天空の、遥かに抜ける音で、好き

だった。

1はヤマトの陽音階に通じるドメスティック、2は琉球音階やペログ音階に通じる遥かな憧れの対象、と感じてたかも知れない。

 

sus4 の解決は嫌いだけど、逆の進行は好き。これは子どもの頃好きだったグリーグペール・ギュント』「朝」の終わり近くのホルンの和音の進行 [fis, a, h, dis] → [fis, a, h, e] が原体験になってるかも知れない。

これの3分33秒目~。