雰囲気が悪なのではない。
特定のシテュエイションに結びついた、例えば「伊勢神宮の棟持柱の死角で人知れず欠伸をするロバート・スミスのような雰囲気」であっても、もっと漠然と捉えがたい「雰囲気」であっても。
問題は作曲における手順だ。
「作曲」は「書法の提示」である。作曲イコールそのまま毎回新たな書法を拓くプロセスであり、またはそのアウトプットを示すことである。
ある雰囲気を「表現」するためにある書法を採用する、のではなく、書法はそれ自体として追究される。雰囲気は後付けで醸される、または醸されない。
ある作曲家の作品がいつもその人固有の雰囲気を纏ってる時、それは長所だし、憧れてよいけれど、作曲家の「テンペラメント」に属することを「意図」で真似は出来ない。私は私の書法の追究に専念し、結果として何かの雰囲気を醸すなら拒絶しないし、醸さないなら自らの純粋を喜ぶ。