音楽の基本要素

音楽の基本3要素はリズム、旋律、和声、と義務教育で聞かされる。この説をまともに採用する楽典があるか知らない。

厳密でもないし、音楽の多様な在り様への目配りも無い。

「旋律」は音高と「リズム」で出来ている。一方が他方を要素として含む2つを並列してる点だけで、この説のいい加減さが判る。

特定の時代の特定の地域の特定の階級の音楽をモデルに発想されてるし。どこが「基本」だよ。

 

「音の4要素」として「高さ、強さ、長さ、音色」を挙げて音楽を組み立てるやり方もある。「トータル・セリエール」もこれにあたる。でもこれでも「トータル=全面的」と呼ぶには、要素を限定し過ぎだ。

例えば、左右の「定位」、遠近の「パース」をセリー音楽のパラメータに加えることだってできる筈*1

曲をアイデンティファイする要素は何か。音の高さや長さが違えば同じ曲と認められないのに、定位やパースがその曲がその曲たる所以であり得ない、なんてことがあるだろうか?

(「パース」は「リヴァーブのデプス」に近い。)

私がこんなことを思ったヒントは、またしてもプログレ。 

これの1分49秒目~2分13秒目。

(この音色クルムホルンかと思ってたら、どうやら regal というオルガンの一種。)

今ではロックやポップで当たり前に行われるアイデアが、もともとはプログレの発明、という例は、多いんだろうと思う。

 

面白くないのは、でたらめでも「リズム、旋律、和声の3要素説」が打ち上げられると、これを真に受けてこれに沿って音楽を発想する者が出て来ることだ。

ポップの大半がそうだ。この場合「リズム」は「リズムパターン」と取り違えられ、スタイルを指す語と組み合わさって「サンバのリズム」「ワルツのリズム」という発想になる。

ポップにおいては規則的なリズムパターンに「のる」ことが重要視される。

《リズム》パターン上の、「主」《メロ》と、コード進行=《和声》による「伴奏」。

つまり、音楽の基本は何か、考え、考え直すためのではなく、それに則れば音楽もどきが作れてしまうメソッドとしての「音楽の3要素」。

 

「リズム」の語が生む誤解が面倒で「符割」と言い換えた件:  

ただ、「リズム」は時間軸だけでなく「強弱」も含めたもの、と考えたほうがいいのかも。

 

「和音」と「音色」はともに「音高」に還元できるからこの3つは統一的に扱うべきだとか、パルスは秒単位で測れば音高、分単位で測ればビートだから、「音高」も「リズム」や「ビート」とともに時間の問題として扱うべきだとか、は、また別に考える。

*1:追記 2019年09月05日 シュトックハウゼンが「空間音楽」をやってたらしい。'Gesang Der Jünglinge' もそれであるらしい。不勉強で済みません。

メモ(作曲と演奏、クラシックとジャズ)

私にとって、音楽≒作曲。

 

クラシックでは作曲者がいちばん偉いに決まってる。演奏者の仕事は、作曲者の意図を正確に形にすることが全てだ。

と思ってるので、私のNHK交響楽団の評価は高い。身近にN響を貶す方が多いと前に書いたが、思い当たるのは、じゃあ逆にどのオケならいいのかというと、アバドルツェルン祝祭管弦楽団なんだろう、ということ。

ソリストの選抜オケ。積極性の塊。いや勿論私も最大に評価します、その積極性と、途轍もないクォリティを。マーラーとか。弾きたがり集団故に、ときに過剰なまでに、鳴る。積極性とクォリティ、日本だと小澤/サイトウ・キネン・オーケストラがこれにあたる。

 

トロント交響楽団と「トゥランガリラ交響曲」録音中、脇からいちいちダメ出しして来るメシアンにキレて、小澤が「うるせえ!指揮者は俺だ!」と言い放った、という話は、話として面白いけど。)

 

アメーバピグの音楽フロアでよくクラシックのお部屋をお立てになる方がいらっしゃる。ある時ブレーズ指揮のものをお掛けになって、その方には珍しいなと思ってると案の定「オケが十分鳴ってない。シカゴ響なのにもったいない」とおっしゃった。

「オケを鳴らす」ことをクラシック演奏の目的にしてどうするんだよ。

そういう聴き手はオケ好きにはある割合いそう。

 

(私は「ある割合」を「一定割合」と言わない。「ある程度」の意味で「一定」と言い始めた奴は誰だ?)

 

ジャズは、クラシックよりは、演奏者のものなのかも知れない。私がジャズに馴染みを持たずに来たのはそのせいかもしれない。マイルズの 'So What' に泣けたのは、モード・ジャズの提示=曲を構成する原理の刷新、にであって、演奏内容についてではなかった。

 

むろん作曲と演奏とを峻別は出来ない。ジャズは「演奏者のもの」というより「演奏即作曲であるもの」なんだろう。

音楽と救い 音楽は救い

「癒し」という言葉を蔑視するのは言わずもがなだが、その私が、音楽に「救われた」と発言することが少なくないのだった。

私が救われるのは、「表現」の対極にある、純粋に音の戯れであるような音楽に。

ハイドンとか。

ある時救われたくてクラウトロックに目星をつけディスクユニオン神保町店に赴いた。初めて知る Zero Set と、未聴だった Kraftwerk "Radio Activity" を見繕って、概ね目論見通りに救われた。

 

「癒し」の語を蔑むのは、これが音楽ビジネスのタグだからだし、意味を正確に定義せぬまま安直に使う者への苛立ちだし、なにより、音楽を何かの「用途」に供する料簡への不服だ。

 

私はお酒を飲まない。ドラッグは一切やったことがないし今後もやりたいと思わないしやらない。

お酒を召し上がったうえで音楽をお聴きになる方が多いのにびっくりする。正しい鑑賞の妨げでしかないと思ってる。でもお酒の効果があって初めて増幅されて聴こえ始める音があるのかも知れない。下戸に発言権はない。

ドラッグと音楽作品の関係についてはかねがね疑問に思ってることがある。

サイケとは、ドラッグをキメたうえで聴く音楽のことなのか、あるいはドラッグで聴こえるものを音楽で模倣するものなのか。

キメたうえで聴けば、どんな音楽でもサイケに聴こえるわけではなくて、適した音楽があるのか?

ドラッグ体験そのものが目的で音楽はその効果を補助するのか? それとも、ドラッグの世界を、ドラッグ体験の無い者向けに翻訳してみせるのがサイケなのか?

ドラッグ体験の無い私がサイケを聴いても、つまるところ聴くべきことはなにも聴こえていないのか? 非サイケと同じ聴き方で、作曲として評価し面白がるのは、間違いなのか?

私は、ひとまずは、コンポジション至上で、「用途」のためにこれが蔑ろにされるのは容認できない、という立場だが、音楽の存在意義をより深く問い直すのも忘れてはならない。音楽の本来持つパワーをコンポジションが馴化し抜け殻化することの方こそ道を見失ってるし罪悪なのかも知れない。料簡はいつも最大に自由に保っていなければならない。

 

以前 twerk という単語を見た時、てっきり Kraftwerk のことだと思った。weblog → blog の法則だと。

表記だが、「クラフトワーク」「コンラッド・シュニッツラー」は「クラフトヴァーク」「コンラート・シュニッツラー」ではダメなんだろうか?

Quatermass は従来「クォーターマス」と呼ばれてるが、「クエイタマス」じゃダメなのか?

ベルアン関係でいうと、「フランボロー・ヘッド」は「フランバラ・ヘッド」、「ピカピカ・ティート」は「ピカピカ・ティアート」だと思う。