ドビュッシー没後100年は3月25日だったのですね。
当ブログがいちばん頻繁に言及してる音楽家なので、記念日に託けて殊更改めて書くネタを持たないのですが。
ドビュッシーの意義はまず何よりも、「音楽」を包摂しそれを成り立たせている広大無辺の「音」の世界から、作曲者が「自分の耳」で自由に音の出来事を聴き取ってきてよいのだ、自由に音を組織してよいのだ、と示して見せたことにある筈だ。
ドビュッシーが現れるとエピゴーネンが続出する皮肉。ドビュッシーのスタイルを模倣することは、ドビュッシーの意義を骨抜きにすることだ。
私のドビュッシーは「聴覚の自由の権化」としてのドビュッシーだ。音組織について、和声的にカデンツからの自由、ことによると音律的に平均律をも前提と見做してなかったと見える、自由。
などの硬い話は本稿ではやりません。
お薦めは、
・オーケストラ曲
・ピアノ曲
『プレリュード第2巻』ベロフ(1970年リリースのほう、1990年代の再録ではなく)
・室内楽曲
『チェロとピアノのソナタ』ヤニグロ、ジネット・ドワイアン
『フルート、ヴィオラとハープのソナタ』ナッシュ・アンサンブル
『ヴァイオリンとピアノのソナタ』ジャン・フルニエ、ジネット・ドワイアン
私はグリュミオーが嫌いでした。ハイデュと組んで入れたドビュッシー『ヴァイオリンソナタ』ステレオ盤のせいで。ところがモノラル時代の録音を聴かせて頂いて、ヴィヴィッドで理想的なドビュッシーでびっくりしました。カスタニョーネというピアニストとやってるやつ(1955年録音)かなあ?未確認。
・オペラ
アバド/ヴィーン・フィル。他の誰よりも意志的な造形。第3幕第1場(で聴き較べをするのが私の慣例です)、メリザンドのソロの歌い終わりから入ってくる弦の強弱法、わけても 'Qui est là?' の箇所の弦がトレモロでクレシェンドするのに腰を抜かしました。もっともこれは、解釈の違いの他に、譜面の版による違いが大きいようです。
『遊戯』『海』は1960年代のブレーズの分析的解釈で大喜びしても、『ペレメリ』『ノクテュルヌ』となると、大事なものが取りこぼされてると感じて満足しません。ここはドビュッシーの音楽のキモを考えるのに大事なポイントかも知れません。(ただし私が『ペレメリ』ブレーズ/コヴェント・ガーデン盤に入り込めなかった最大の理由は「ゼーダーシュトレムのメリザンド」です。アバド盤のユーイングといい、何の政治力でキャストが決まるのか。)
1992年収録のDVD、ブレーズ/ウェイルズ・ナショナル・オペラのライヴはこの点、分析即審美、の理想的なドビュッシー。(舞台演出はオーソドックス、メーテルランク/ドビュッシーの「象徴派」の世界に浸るには好都合。)
あと、私の『ペレメリ』像に近いのは、デゾルミエール、フルネ。
・声楽曲というか劇音楽
『聖セバスティアンの殉教』
2000年代のCDで、極め付きに透明な演奏のやつがありました。夾雑物を一切含まない響き。その時初めて知った指揮者/オケでした。名前を思い出せない…不覚!*1
これを措くなら、まずはアンセルメ。
・歌曲
『ビリティスの3つの歌』シュターデ(メゾ・ソプラノ)、カッツ(ピアノ)
・付随音楽
ビリティスといえば。
『ビリティスの歌 パントマイムと詩の朗読のための音楽』アンサンブル・ヴィーン - ベルリン、カトリーヌ・ドヌーヴ(朗読)
フルート2、ハープ2、チェレスタの草稿。1900年。(チェレスタのパートは紛失、のちにブレーズが復元、補完。)
これを1914年にピアノ連弾のために改作したのが、
『6つの古代碑銘』ロベール・カザドシュ、ギャビー・カザドシュ
アンサンブル・ヴィーン - ベルリンの盤はドビュッシー、ラヴェルの室内楽を集めてて、ラヴェル『ヴァイオリンとチェロのソナタ』も入ってますが、ものすごく立派に豊かに鳴って、本来もっとギスギスした曲なんじゃないの?と思います。
補足的関連記事:
*1:追記 2021年12月17日
ジャック・メルシエ指揮イル・ド・フランス国立管弦楽団でした。記事にしました: