マチエールは敵。
フェルメールで思い出したんだけど、(昔の、しかも聞き齧りで、全てが不確かなんだけど、)彼は砂を含む絵具を使ってて、『デルフトの眺望』の画面の煌めきもその質感に拠るところがある、と聞いてがっかりしたんだった。
私の好んだ彼の画面の煌めきが「描かれた」ものではなかった、絵の具の質感に頼ったものだった、と。
絵の具の特性を知りコントロールし駆使すれば、それは作者が「描いた」と言っていいのかもだけど。
にしても私は何にがっかりしたのだろう? 2つの点だと思う。
①マチエールに頼ることへの不服
風景を色の要素の並びに還元し、その並びを画面上に再現することが「描く」ことだ。マチエールに頼ることはその手続きをサボることである。
②技法の統一・純粋を貴ぶ立場から
フェルメールの絵は概ね①のやり方で描かれてて、時によって絵具のマチエールにも頼る、という技法の「不純」。
という時、比較対象として、一つの理想として、思い浮かべてるのは、スーラ。
だからフェルメールよりスーラが好き、とはならないんだけど。
省みて、私は音色を倍音合成で作るわけじゃない。PCM音源の音色を使ってる。そこは卑怯だなと思う。