ルマンドアイス道

2月12日の上陸以来、関東地方でルマンドアイスの食べ方の作法をめぐって、流派が百家争鳴の状態である。

「関東地方で」という言い方は範囲を広く取りすぎかもしれない。もう少し正確には「私の脳内で」である。

当初、この記事

で書いたとおり、2つの流派が対立していた。

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流派A:最初に4つに割って、図の①方向に食べ進む。ルマンドとアイスを同時に食べることになる。割る作法から「分離派」と呼ばれた。

流派B:割らずに、図の②方向に食べ進む。ルマンドとアイスを交互に食べることになる。ルマンドとアイスとを分ける作法から「Sezession」と呼ばれた。

「分離派」と「Sezession」は同じではないか?とご指摘だろうか? 全く違う。どのくらい違うかというと、「独立展」と「アンデパンダン展」くらい違う。

流派A「分離派」は、ルマンドとアイスとのブレンドを、ある理想的な比率に設定してレシピ化する「キメキメ」の指向性を持つ。

流派B「Sezsssion」においては、ルマンドとアイスとを「なるべく」分けつつ、どうしても混ざってしまう。そこに美を見出す(厳密に分けたいのなら、ルマンドとアイスとを別々に買ってきて、別々に食べればよいのだから)。必然的に、一口ごとにブレンドの割合が違ってくる。「その場」の指向性を持つ。

 

指向性の対立が際立つポイントが、「時間経過=溶け」をどう捉えるか、である。

流派B「Sezession」においては、 1個通しで食べるので、同じ箇所を持ち続けることになる。その箇所の溶けが進む。

流派A「分離派」はこの溶けの程度を4分の1に出来るし、4分の1を食べているあいだ他を冷凍庫に保管しておくことも出来る。ここに、この流派の「管理」の指向性が端的に現れる。

 

現状、2つの流派の、内部での細分化、分派の発生など、「ヘヴィ・メタル」のサブジャンルに似た様相を呈する[要出典]

 

ここに、もう一つの流派が、全く新たな視点から興った。

食べてる自分の指向が、瞬間瞬間、既存2つの流派のどちらにも傾き得ることに気付き、ここを出発点とするその流派は、流派という形に凝り固まらない流派として「無所属の会」と呼ばれる。

 

従来「分離派」と「Sezession」は対立するものと目されていたが、

 

分離派 ↔ Sezession

 

ここに来て「流派派」として一つにカテゴライズされ、「非流派派」である「無所属の会」と対置されるに至った。

 

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無所属の会」は、決して、これまでの議論をチャラにする「難しいこと抜きに美味しければいいじゃん」ではない。

「折衷」でもない。重要なのは、この流派がじつは「Sezession」を源流とすることである。

「Sezession」は「溶け」への態度に見られるように、自然の「移ろい」を積極的に受け入れ、作法に取り入れる。「無所属の会」のキモは、この「移ろい」概念の「拡張」にある。

すなわち、移ろうのは「自然」、これを客体として愛でる「自ら」は主体、という図式を、さらに客体化する視点である。

自らも自然の一環であり、自らも移ろうのだ、というその視点は、キメキメの「分離派」からは派生し得なかったものだ。