「おかえり」

「おかえり」は、「ここはあなたの居場所」「私はあなたの味方」の表明だから、「人にかける好きな言葉」として、真っ先に思い浮かべる。

掛けた記憶も掛けられた記憶も無いけど。

唯一、ある新興宗教の団体に引っ掛かりそうになった時、初めて行った「教会」で「おかえりなさい」という言葉で迎えられた。

神様の御許に帰って来た。居場所のなかった私は不覚にもほろっとした。あぶねえ。

そこには既に文鮮明というメシアがいたので、自分自身がメシアになるつもりでいた私は、それ以上関わらなかった。

 

矢野顕子 "Welcome Back" 収録曲。

最近アメブロで書いたこと③/3

(「恋愛運と金運、上がるならどっちを選ぶ?」に応えて)

「恋愛」と「運」って馴染まない気がしてるんだけど、上手く説明できない。

恋愛は何か「必然」に属するもの、と思ってるのかな、私。

運が良いから出会うとか、運が良いから上手く運ぶとかいう性質の事柄じゃない、というか、

運が良いせいで上手く行っても嬉しくない、というか。

やっぱり上手く言えない。

 

運が良いせいでお金が入るのは嬉しいです。

 

 

(岸純信氏の御記事をリブログして)

ameblo.jp

 

私、日頃気になってることがありまして、

「~とのインタヴュー」

という言い方と、

「~へのインタヴュー」

という言い方があるけど、「~との」が本来だと思うのです。

 

Q&A 形式ということは、Q の項目があらかじめ決まってる、ということでしょうか。

相互行為の中で、その場で生まれる Q というのが、当然あるし、それが無ければ面白くないだろうと思います。

 

原稿の形にする時に、体裁として Q&A 形式に落とし込む、というケースもあるのかな?

設問は、相手の話を引き出す「きっかけ」であって、ならば原稿化する時には極力削る。これは書き手のスタンスとしても自然でしょうし、私なぞが読み手として興味を持つ点は、形式の選択が、いかに「場」のやりとりの「ダイナミズム」を捉えるために機能してるか、です。

 

(ユーロ・ロック・プレスの、外国アーティスト・インタヴューは、項目をメールで送って、回答を返信してもらう、という方法だったように記憶してます(すべてそうだったか判りませんし、今もそうか判りませんが)。「Q&A 形式」であり「~への」インタヴューということです。)

 

余談ですが、インタヴュー記事に限らずいっぱんに、例えば学術書でも、昔から対話形式で書かれるものだし、ディアロゴスは「知」の営みの基本だし、形式として対話でない場合でも、書物というのは、結論を述べるものではなく、自分の中で意見を戦わせながら書き進めるものなんでしょう。

 

 

(夜ご飯)

「正しい日本語」を言い募る者ほど「正しさ」を論理的に説明できなかったり、自らの「排除」の態度こそが日本語を貧しくすることに気付かなかったりする矛盾と滑稽。

 

「真逆」という語の時と同じ光景。「夜ご飯」についても、ああやっぱり、

「『夜ご飯』じゃない。『晩ご飯』だ」

って言いたがる人がいるんだ。

 

「夜ご飯」は比較的新しく言われだした。それだけ。

 

私自身、古風な響きの「晩ご飯」を好んで敢えて使うけど、他人様に指図するとか、世の中かくあるべしとか、は毛頭無い。

 

日本語がどうあるべきか考えるのは大事。

言葉が時代とともに変わるのは当然といっても、私が嫌うのは、自らの日本語について無自覚・無責任な故に流されること。

「真逆」「夜ご飯」の是非を論ずることが正しい日本語を考えることじゃない。

 

「正しい」の理由を安易に「慣習」に求めない。

なぜ「がの」「をの」という助詞がないのか、疑問に思ってみる。だって「君の夢」じゃ your dream なのか a dream of you なのか区別がつかない。「君がの夢」「君をの夢」と言えたら一聴で区別できて便利なのに、「正しい」日本語と認定されない、ということを「不合理」と感じることができるセンスの持ち主であるかどうか。

 

明日「に」期待し、明日「を」展望する。なのに、明日「への」期待、明日「への」展望と言う。

明日「にの」期待、明日「をの」展望と言うことを日本語は何故許さないのか。とか。

(「~への~」という名詞句的言い回しは翻訳文的に響く。歴史が浅いのかも知れない。「明日に期待する」という平叙文を名詞句的言い回しに変換する時の手続きを熟させ定着させるのに、性急だったのかも知れない。)

 

もちろん私だって、自分の話す一語一語について、語源を深く理解し語義を厳密に弁えてるわけじゃないけど。

大事なのは、

一方では、それぞれの単語やフレーズの背負ってる歴史をできるだけ深く知ろうとする態度。

他方では、いったん論理学的にとことんまで突き詰めて、コンヴェンションを排除してみること。

 

一方では、論理的に可能な、というかむしろそっちであるべき言い回しと、実際に行われてる言い回しとの差を炙り出す。

他方では、何故その言い回しが採用された/されなかったのかを歴史に問う。

 

ところで、日本語の「正しさ」警察の方の中には、「湯桶読み」「重箱読み」を避ける傾向にあったり、

「『ひと段落』じゃない、『いち段落』だ」

とイミフの難癖を付けたり、など音訓の整合性に敏感な方がいらっしゃるけど、その方は「朝ご飯」「昼ご飯」「晩ご飯」については、訓読みの「朝」「昼」ときて「晩」だけ音読みなことは容認できるんだろうか?

 

最近アメブロで書いたこと②/3

(04月20日「郵政記念日」のブログネタに応えて)

「この広い野原いっぱい」(曲:森山良子、詞:小薗江圭子、歌:森山良子)を、1コーラス目、2コーラス目だけで知ってて、「『あなたにあげる』、ってそもそも花も星も君のものじゃない」と皮肉な感想を持ってた。

ある時「ラジオ深夜便」でフルコーラス聴いた。4コーラスあった。4コーラス目の最後の最後に、オチが待っていた。びっくりして、どっと泣いた。

 

「だから私に 手紙を書いて」

 

この広い野原いっぱい咲く花、この広い夜空いっぱい咲く星、この広い海いっぱい咲く舟、この広い世界中のなにもかも、ひとつ残らずあげる、その対価として要求するのが、たった1通の手紙。

 

たしかに、1通の手紙は時として、人の心を、命を、救う。

 

 

(Vodník について)

チェコ 河童」でググると、こちらの御記事がいちばん上に出ました:

ameblo.jp

河童については、

「アマールカ」

チャペックの「カッパのはなし」

の例が挙がっています。

そのほか、ヘルミーナ・ティールロヴァーのアニメ「サンゴのおはなし」からの画像が美しいです。「クルテク」の画像も。

 

チェコの河童は「ヴォドニーク Vodník」。

ドヴォルジャークの「水の精」もこれらしい。

スラヴ語圏には各地に同様の「水の妖精」がいて、ロシアだと「ヴォジャノーイ」がこれにあたるようです。

ja.wikipedia.org

 

セネシオ氏の御ブログ記事。ヴォドニークが題材のチェコの児童文学作品の紹介。

cenecio.hatenablog.com

カレル・チャペック「カッパの話」からの引用

ヨゼフ・ラダ「おばけとかっぱ」の紹介、図版あり

cenecio.hatenablog.com

ボフミル・ジーハ作、ヤン・クドゥラーチェク絵「おかしな結婚式」の紹介、図版あり

 

 

(04月21日「民放の日」のブログネタ「子どもの頃に好きだったテレビ番組、教えて!」に応えて)

『トゥトゥアンサンブル』は、音楽を音楽そのものとして理解させるスタンスじゃなかった。

音楽の森」のセットは美術として美しかったし、

リコーダーの神さまの樹「トゥトゥトゥリー」が聳えてたり、音楽の妖精「ララ」がいたり、という設定と相俟って、

森の奥深さと神秘を感じさせたし、ぶっちゃけ私は魅了されてたけど、

そういう付随する道具立てで子どもの関心を惹きつけることは、音楽理解の邪魔でしかない。

 

音楽そのものが内に持つ魅力をどう判らせるか、就中どう「体感」させるか、について E テレで唯一正しかったのは、野村誠の『あいのて』。

子どもが自分の耳で音楽を「発見」するように仕向けてた。

 

『トゥトゥアンサンブル』も、「教則」の狭さを脱しようとしたんだろう。でも却って音楽から逸れた。『あいのて』は、「教則」によって見えなくなる音楽の「本来」を探り当ててた。

 

『トゥトゥアンサンブル』のセットに惹かれた、というのはつまり、手づくり感、アナログ感が好き、ということだったんだろう。

ヴァーチャルスタジオに居心地の悪さを覚える体質だった。

 

「民放の日」なのに NHK の番組しか挙げてない…