Morgan Fisher

モーガン・フィッシャーというと、プログレ聴者的にはバンド Morgan の "Nova Solis"(1972)の人、オルタナ聴者的にはオムニバス "Miniatures"(1980)の編集者、なのかもだけど、私が最初に聴いたのはこれだったかも知れない:

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Lol Coxhill, Morgan Fisher "Slow Music"(1980) 

 

作曲は Morgan Fisher。

 

'Flotsam' と 'Jetsam' はアルバムでは別トラックで、この動画前半が 'Flotsam'、後半が'Jetsam'。作曲はともに Morgan Fisher。

 

Morgan "Nova Solis" は最近聴いたのだけど、歌い出しのヴォーカルラインが、典型的にイギリス的、と思って、嬉しくなった。イタリア RCA のスタジオで、そこの機材、各種キーボードを使って制作されたために、音的にはイタリア、という評もあるようだけど。

 

Mott The Hoople を知ったのはごく最近。それも、'All The Young Dudes' 1曲しか聴いてない。グラム・ロックとか抜きに「サビの造形(メロとコードと尺、それらの結び付き)が天才的なクラシック・ロック」と思った。びっくりしたのでググって、デイヴィッド・ボウイ提供曲と知り、さらにびっくりした。

白い長方形の箱

そうか、夢で食べればいいわけか。

ネギたっぷりで、広い長方形の白いヴァットに入った塩ラーメンを食べていた。

イチローさん(野球の)と、チャラいニューアカっぽい先生の対談(生活スタイルについての)を聴きながら。

ヴァットの奥から手前に向かって箸を寄せて来て一口分集めてた。

夢だけど、邪魔立てするものや状況は無くて、思い通りスムーズに、数分間、同じヴァットから同じラーメンを食べ続けた。ラーメンと呼ぶには麺が短いが、ラーメンの味だった。

絶食中だけど、その中休み的に、どうせ食べるのならと貪り気味だった。

一口だけ、しょっぱ過ぎる、と思ったが、それはその一口だけで、美味しかったし、目覚めたとき満足してた。

 

昨日はギターの夢を見た。ソリッドの、木目がそのまま見える塗装(呼び方知らない)のネック部分が、白いボール紙の箱(30cm×80cm)に入った形状で、ボディ部分が無い。ふつうに調弦された6弦+ネックから低音の側に少し離れて2弦(共鳴弦的)。永く会ってない親族の一人が来る。私「このギター見た目はこんなだけど調弦は安定してるし真っ当に弾けるんだよ」と開放でジャラーンとストロークする。'Lady Of The Dancing Water' を弾いてみせようとするが、咄嗟に運指を思い出せず、'Roundabout' のイントロにする。ベッドに寝た状態で、足元に物が絡まってきたり、腕が足の下から出る体勢になったり、頭を家具的な物が圧迫してくるのをどけようとしたりで、結局弾けずこのシーンは終了。

ネットに接続しようとする。数階建ての大きな建物の1階にあるオペレーションルーム的な現実の空間で、あるサイトにアクセスすること=建物のある階のある場所に行くこと。アクセスの方法が咄嗟に判らない。取り敢えずまずどこか目的地の近くにアクセスして…とか考えるが、結局オペレーションルームでの操作を諦め、歩いてエレベーターを使うことにする。ところが私の本体が、オペレーションルームの壁面の高い位置にあるモニターの中の直径1メートル強の地球儀の上にいて、猫(青色、もふもふ)になってその場にフニャけて、呼んでも降りて来ない。分身である私は歩き出す。途中にある別の地球儀に、私の本体が、キッコロ的キャラクター(鈍い赤色だけど)になって、いる。2匹いるうちの1匹を確保して連れてゆくが、「これって備品を盗んで持ち去ることだよな」と思い直し、元の場所に返しに行く。

 

インフル後しばらく、生身の人や現実の空間が出て来ず、人がツイートの形をしてた。

昨日の夢では逆に、ネットの世界が、現実の空間として出て来た。

 

今日ラーメンの夢から醒めて、2つの夢に「白い長方形の箱」という共通点があるのに気付いた。立体の箱なのに「長方形」と呼ぶのは、2つとも、側面が鉛直ではなく上の方が広いので「直方体」ではないから。

昨日、ギターの夢を、面白いと思ったのに、怠くて、書かなかった。今日の夢にヴァットが出て来たのは、昨日の夢を書け、という促しだったのかもと思う。

上が広い、天面が開いた、白いボール紙の箱。でまず連想したのは、モンテールのロールケーキ。やはり私は飢えている。

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弁天様の意思と価値が世界を満たしますように

これが初詣になるわけか。意図してなかったけど1月中に行けて良かった。

往復2時間、10,000歩は超えたかな?

弁天様へのお願い、若い頃は「御心のままに」としか言えなかった。

ある時期から「道をお示し下さい」になった。

今日は「弁天様の意思と価値が世界を満たしますように」。

私自身はもう作曲をしない。

たもとの、花見川に掛かる大きな弁天橋の朱色の塗装が、道のカーブとともに突然眼前に現れると壮観だったのが、今日3年振りに見ると黄土色に褪色していた。つまり一昨年と去年はお参りしませんでした。済みません。

 

昨日、ほぼ同じ距離を歩いて、花見川まで出て、数年振りにポンプ場の円柱形の塔(貯水塔?)を見た。

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どこまで歩けるか様子見しつつ距離を伸ばし、これなら弁天様までも行けるな、と思ったのだった。

上野耕路のアルバムに『レゼルヴォワール』というタイトルのがある。貼らないけど。

 

途上、視界の広く開ける場所がある。ふだん部屋に籠りきりだと、大きな空間に戸惑う。

どう捉えたものか。

たしかにそこに大きな空間があるのだけど、ふだんの空間把握のスケールと折り合いが付かなくて、現実の空間というよりも自分の認識の中の出来事に収めそうになる。

手塚治虫の『火の鳥』だったか?深い穴の底で生まれてそこで育った若者が、穴の壁を攀じ登り、初めて外の世界を見た時のセリフ「世界はこんなに広いのか」を読んだとき、穴の底の世界しか見たことのなかった者が、初めて眼前にする空間についてこういうセリフを発するためには、時間が必要だし、それを「広さ」と認識するためには空間把握の更新が必要だろう、と思った。

昨日それを思い出した。

広さと狭さということでいうと、あと Genesis "The Lamb Lies Down On Broadway" の魅力のひとつは「スタジオ感」だと思ってる。大きな世界を遍歴するんだけど、その全てが実はスタジオの中だけで成り立ってる、という質感。