「標題楽第1番」をもう一度

そうだった。

ここ

で書いた、「長い距離を渡って届いてくるリディアンモードの断片」体験が、これ

の 0'27"~0'42" に反映してるのだった。

 

「『標題楽』というタイトルなのに標題がない」というツッコミを、今のところ頂いてない。

標題楽ないし描写音楽を好まない、というか解らない、その発想がない、ということは何度か書いた。「標題楽」を「交響曲」「ソナタ」の類のジャンル名として扱う。そこには私の標題楽へのナナメな思いが作用してる。

 

じつは「7月24日」が隠し標題なのです。友人のお誕生日。

酷暑の大気と、その面(おもて)に送ってよこす涼しさの欠片。涼しさの前提としての酷暑。

ツイッターの「#熱いので涼しげな自作音源晒す」も意識にありつつ。

標題楽は私には不可能、と確認する結果になった。

phew「終曲」

phew の「終曲」を戸川純がカヴァーしてると知った。

トピックとしては「おおお!!!」となるけど、つべで聴いてみたら、取り立ててどうというものではなかった。

phew の EP に歌詞カードは無い。戸川にも無いらしい。

戸川が歌詞を phew に確認したかどうか知らない。

聴き取りを試みてるサイトがいくつかあるが、「かいげんぞうご」「怪言雑語」としてるのは、素直に「大言壮語」じゃダメなんだろうか?

「えたりやを」「得たりや おお」としてるのは「得たりやおう」じゃダメなんだろうか?「得たり賢し」「得たりやおう」「得たり」はいずれも「しめた、うまくいった」の意味の感動詞

 

アメーバピグの音楽フロアで、私は「坂本と吉田と菊地にはニコしない」と断ってるけど、「COLLABORATION WITH 坂本龍一」のこれは自分でも掛ける。

あとティポグラフィカは掛けるけど、あれは「今堀のバンド」なので。

 

こういう記事を見つけた:

 

全くの蛇足ながら、私のこれのドラムのパターン(0'32"目以降)は、「終曲」のパクリだったりする:

2年前の8月10日、友人のシロちゃんのお誕生日にプレゼントした曲。シロちゃんお元気かなあ?

関連記事:

The Beatles 'Dig A Pony'

マッカートニーの作曲は、そのスタイルを模倣する対象であって、後を継ぐべき「精神」ではない。

レノンの作曲には逆に、エピゴーネンが有り得ない。模倣すべきスタイルのポイントを抽出できない。有り得るとすれば彼の精神の後継ぎだけど、現実に誰が彼の後継ぎなのかは、私は世間の音楽に疎いので判らない。無論ここでいう「精神」とは作曲におけるそれであって、音楽以外の要素、平たくいって「政治性」のことではない。

彼の後継ぎであるために、彼に「似ている」必要はない。むしろ真似ることは彼の精神を骨抜きにすることだ。

インスピレイションによる譲れない造形はしかし、しばしば瞬間に属し、必ずしも1曲の長さ分の材料を齎さない。レノンの曲は、目覚ましい独創の箇所もありつつ、1曲を通して見るとムラがある。これは「目覚ましくない箇所」の「間をもたせる」作曲スキルを持たない「無器用」ではなく、これを潔しとしない「誠実」である。つまりレノンはシューマンベルリオーズの系譜に属する。マッカートニーはショパンということになろう。

 

レノンの「造形」で私が一等好きなのは、'Dig A Pony' の、↓の動画で 0'29"~0'39"、

Well, you can celebrate anything you want

Yes, you can celebrate anything you want

の、メロディと、コードだ。

キーは A。

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