「とかく人と人との繋がりが希薄になっていると叫ばれる昨今、一服の清涼剤でした」

多摩川に現れたアザラシに「タマちゃん」と命名するのは、見も蓋も無くとも、最初の例だから良い。でもその後各地の同様の例で地元民がこの命名法を踏襲したがるのが何故なのか、解せない。

ウタちゃん、ナカちゃん、マジちゃん、コヤちゃん、トカちゃん

メディアでだけ見る他所事と思ってたイヴェントが、突然地元に降りかかって我が事となった時、「タマちゃん」を踏襲することで流れに連なってる感を味わう、のだろうか?

私なら逆に、ここぞオリジナリティある命名に知恵を絞る機会、と意気込む。

妙案は無い。ただ、「ナカちゃん」の時、彼女が、ヒトの「経済」活動による「環境」破壊への警告を携えたメッセンジャーと思えたから、「エコエコアザラシ」でいいじゃん、と思った。

自然発生的に呼ばれるようになるとか、公募で正式に決まるとか、なんだろうけど、「コヤちゃん」は知事が名づけたらしい。

あと、むろん、渡嘉敷島に現れたらそれは「トカちゃん」と呼ぶ以外有り得ない。

 

昔、NHKラジオ第1「私の本棚」という朗読のコーナーで、阿川佐和子壇ふみの共著を、著者本人2人が読んでた。

共著というか、阿川、檀、それぞれのエッセイが交互に並んでた。

私の感想は「オリジナルの言葉で書くという意識・矜持が無いのか(揃いも揃って作家の娘のくせに)?」だった。

クリシェだけで出来た文章。既存の言い回しにうまく落とし込むことが作家の仕事、と思ってるのか?

本人が朗読してたんだから、それなりに自著としてカウントしてたんだろう。黒歴史ではなく。

クリシェで言えることはクリシェで済ませればいい。でもそれは作家の仕事じゃない。作家は「クリシェで言えることは言わない」べきだ。

需要はあるんだろうな。

 

一般に、既存の言い回しの援用への誘惑というものが、世間にはあるのだろうか?

私は「~する今日この頃」とか恥かしくて使えない。

メモ(訳語)

トランプ・タワーでの火災を報じるBBCニュースのレポーター「屋根から白い煙とはローマ法王を発表する時のようですね。新しい指導者が発表されるのかも」

ツイッターで見かけた話題ですが、ある理由から元ツイをリンクはしません)

 

2005年に「コンクラーヴェ」の語を初めて聞き、語源 cum clavi の clavi が「カギ」の意と知った時、これと「クラヴィーア」とが同源なことに気付く。

同時に、このことが、英語の「key」と日本語の「鍵」がともに「カギ」「鍵盤」の両方を指すことと対応することに気付く。

ただし、「key」が「clavis」の、「鍵」が「key」の直接の訳語なのかどうかは、今も知らない。

 

clavis の訳として key が当てられたのなら上述の対応は当然なのだが、改めて思うのは、訳すという作業は、即物的に場当り的に訳語を当てることではなく、鍵と鍵盤とに通底する概念まるごと、同じ語で呼ばれるようになった経緯まるごとを訳すことなのだ、と。

メモ(TV)

声優に特有の、発声の「くせ」が気になってしょうがない。

力みなく勿体付けず、パワーを素直に声に変換するのが基礎だと思うんだけど、訓練の機会が無いのか?

フレーズの終わりごといちいちの、「クハッ」とでも表記できる喉の音は、聞かされるこっちが息苦しくなる。

猖獗極めてるし長年そうだから、「くせ」が「スタイル」として継承されてるんだろう。

 

私、くどい:

NHK は、国際ニュースやドキュメンタリーについては、BBCアルジャジーラを紹介するのが役回りであって、自前で制作しようなどという料簡起こさなくていい。

でも、その、外国のドキュメンタリーを紹介する場合も、吹き替えの声優の「スタイル」に辟易して、最後まで視通すのを、いつも断念してた。

 

私が TV を視なくなった理由は、まず何よりうるさいから。

声を張り上げられたら耳を塞ぐだけだと気付け。

視聴者の「積極性」と「理解力」を信頼しろ。

 

ニュースに BGM 付けるとか、信じられない。BGM は演出、見方を誘導することだから、報道がいちばんやっちゃいけないことだ。

 

ヒトがものを食べてるシーンとか、なんで TV で映すかな?あとヒトの顔アップも耐えられない。TV に映る絵面は大半がそれらだから、もともと私は TV に縁が無い。

 

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